シェル・フーコーは、皮膚を境界として人間の身体を見立てときに、近代医学が始まったという。近代に登場した解剖医学のまなざしによって、生と死、そして病は、ひとつの空間のなかで語られるようになった。 ここには、人間はどんなに複雑に見えようとも、結局はひとつの精密な機械である――という近代独特の身体観がある。

 皮膚-境界ほどミステリアスなものはない。外界と身体の境界としての皮膚。多くの現代人にとって、それはたしかに〈自己-非自己〉のボーダー機能をはたしている。僕の皮膚の外部は、僕ではない。そうやって人々は、自分をますます狭いところに閉じこめていく。生物学的に見れば、このボーダーは「感覚細胞がぎっしりつまった表皮細胞の群れ」とされるわけだ。だが、感覚細胞のルーツが触覚細胞にあるとするなら、さしずめ、眼球とは「光を触る皮膚」、鼓膜とは「音を触る皮膚」という言い方も可能なはずだ。

 そこで、パソコンのマウスの表面をそっと触ってみる。このとき、僕の指先には合成樹脂の、あのまったりとした滑らかさが伝わってくる。しかし、同時に指先を包む表皮のざらつきも微妙に感覚化されている。ということは、この接触の事件においては、皮膚の表面を外側から感覚化しているものがいる、ということだ。マウスが僕を触っている――。

 このような相互触感が、もし五感のすべてに行き渡っているとするなら、僕らは世界を見るときに、「世界に見られている」ことになるし、音楽を聴くときには、「音楽に聴かれている」と言わなくてはならないだろう。触るという感覚、見るという感覚、聴くという感覚。いずれにしろ、ここには別の皮膚があるのだ。

 触ることにおいて皮膚感覚が出現するのなら、見ることにおいての皮膚とは「光」ということになる。それは、今まで外部環境と呼ばれていた場所なのだが、光が皮膚へと変化したその瞬間、その外部環境は、わたしの身体の内部性に変わるのだ。わたしを包む超薄の皮膜。デュシャンのアンフラマンス、四次元の花嫁……。

 ユダヤ教のミドラーシュは、光を表す「Or」が、皮膚を表す「Or」に変化していったとき、ジェンダーの原初的分裂が起り、女性という存在が生まれてきたと説いている。その意味で言えば、光はいまだ皮膚に変化してはいない。ジェンダーの原初的分裂は未だ起っていないのだ。「人間の外面」とは、こういった眠れる女性の住処のことをいう。(コウセン)



・ミシェル・フーコー/1926〜1984……フランス構造主義の代表的思想家。著作に『狂気の歴史』『言葉と物』『臨床医学の誕生』『知の考古学』『性の歴史』など。
・ミドラーシュ/旧約聖書の原理主義的な釈義のこと。

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