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7月17〜18日の二日間、今年83才になる父の旅に付き人として同行した。父はS学会の50年来の熱心な信徒である。若い頃は教団の幹部を歴任し、教学部では教授の資格を持つ理論派の猛者でもあった。70才を過ぎてからは一線を退き、末端の一会員として活動していた。そんな父の長年の夢が、日蓮流罪の地、佐渡ケ島訪問であった。常々、死ぬまでに一度は佐渡の地を踏んでみたいと語っていた父だが、日に日に衰えて行く体力を案じて、ついに、この夏の佐渡行きを決心したのである。
佐渡に着いて、まっ先に向かったのは、S学会の佐渡会館である。わたしは父が会館側に何の連絡も入れていないことを懸念していた。突然の来訪者に果たして親切に応対してくれるものかどうか不安だったのである。出発前に、電話だけでも入れておくように何度も頼んだのだが、父は行けばなんとかなるとたかを括っていたようだ。悪い予感は的中するものだ。会館には二人の女性職員が応対に出てくれたが、二人とも大事な昼休みを邪魔されて迷惑しているようだった。父は執拗に佐渡幽閉中の日蓮の足跡に詳しい人物はいないものか尋ねるが、そっけない返事しか返ってこない。そうこうしているうちに、業を煮やした父が突然、キレた。
「わたしを誰だと思っとるのかね。幹部じゃないと話にならん。責任者を呼びなさい!!」二人の職員は露骨に嫌な顔して、あたり一面が一気に険悪な雰囲気に包まれた。致し方ない。わたしの出番だ。父と職員のやりとりの中に割って入り、事前の連絡を入れなかったことを詫び、何とか父を言い聞かせて会館を後にした。父が何と言おうとダメなものはダメなのだ。
自分が抱いていた佐渡の学会員のイメージと現実のそれには天地の開きがあったのだろう。父は憤慨しているというよりは、かなりのショックを受けているようだった。「佐渡の学会員がなぜ日蓮大聖人を大事に思っておらんのか。残念でたまらん。」父は悲し気に言った。まさに、父の魂の行脚は最悪のスタートとなった。
しかし、捨てる神あれば拾う神あり。すぐに天使役が現れてくれた。タクシーの運転手である。もちろん、彼は学会員ではなかったが、話をしてみると日蓮の足跡に思いのほか詳しかった。日蓮の佐渡の幽閉は文永八年〜十一年(1271〜1274)の四年間にわたり、そのうち二年は一の谷(いちのせき)に蟄居し、「開目抄」と「勧心本尊抄」をしたためたという。その場所には現在、妙宣寺という寺が立てられている。その隣には実相寺という寺があり、その傍にある「三光の杉」と名付けられた巨木の前で、日蓮は毎朝、鎌倉へ戻ることを祈念したということだった。しかし、彼が紹介してくれた日蓮に所縁のあるこれらの寺院は、父の仇敵ともいっていい身延派であり、宗門上の対立から、父は寺には決して足を踏み入れまいと固く心に誓っていたので、とりあえずは、その両寺の周辺を散策してみようということになった。
まずは実相寺である。ここには境内の外に日蓮の銅像があった。境内に入らなければ何の問題もない。父はまっ先に銅像へと向かった。銅像の前まで辿り着くやいなや、おもむろに、ふところから数珠を取り出し、数百米四方に響き渡るのではないかと思われる激声で、五字七字の題目を朗唱し始めた。魂というか、気合いのこもった音声が周囲の雑木林を震わせる。父とは過去、中国やグァムなどを共に旅行した経験があるが、ホテルの部屋であれ何であれ、一目をはばからず「南無妙法蓮華経」の題目三唱を行い、同行者にいつも気恥ずかしい思いをさせていた。しかし、この日ばかりは、父の声に羞恥心を感じることはなかった。わたしも、後方で、そっと合掌した。全精力を込めた唱題を終えて、父の気分も幾分か晴れたようだ。次に隣の妙宣寺へと向かった。三光の杉の前まで来ると、しばらく黙祷を捧げ、またもや激しい唱題が始まった。およそ七百年前、日蓮が立ったと思われるその同じ場所で、今、あの父が朗々と題目を唱えている。妙に感傷的な気分になった。時間にして正味10分ぐらいだったろうか。 唱題を終えた父は「もう思い遺すことはない。」と、神妙な面持ちで呟いた。佐渡の会館でのあと味の悪さがまだ残っていたには違いないが、どうにか、今回の旅で自分自身に課した責務を全うしたという安堵感が見てとれた。その後、日蓮と関係のある場所を何ケ所か回り、宿舎へと向かった。
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