主党と自由党の合併が成立した。念願の野党政権の樹立を目指して、今度の総選挙は小泉、自民VS管・民主の一騎討ちとなるだろう、と言いたいところだが、いくら政局にうとい僕でも、今回、合併大会で、管代表が表明した「最小不幸社会」というキャッチフレーズにはいささか仰天してしまった。
 最大幸福VS最小不幸。なるほど、自民党政権とのコントラストを明瞭にするには確かにキャッチーなマニフェストには違いない。幸福を大きくする政策と、不幸を最小にする政策、君はどちらがお好みか――というわけだ。しかし、冷静に考えればこれらが対立軸になることなんてあり得ない。反対の反対は賛成と相場が決まってるじゃないか。こんなバカボンパパのロジックが対立軸になり得ると考える民主党指導部たちの意識はあまりに脳天気だ。

 最大幸福とはご存じベンサムの言葉だが、ベンサムのいう功利主義とは幸福をいかにして高めるかということだけにあるのではない。ベンサムは『道徳および立法の諸原理序説』の中で、危害、苦痛、害悪または不幸が起こることを防止する傾向をもつものもまた功利性である、とはっきり言っている。つまり、最大幸福であれ、最小不幸であれ、どちらも功利主義のスローガンであることに変わりはない、ということだ。確かに生活苦や貧困は好ましい状況ではないだろう。しかし、それを一方的に不幸だと決めつける精神構造の方がはるかに貧困ではないか。20世紀の人々を不幸のどん底に陥れた元凶は、もとはといえば、このような功利主義的政治理念ではなかったのか。
 人生の成功者=金持ち、という不変式が成り立つ資本主義社会は、ゆりかごから墓場まで、新種の貧困さや劣等感を日々生産し、無力感やみじめさを植え付けるオートメーション機構として機能している。家族にはじまり、学校、職場、お役所までもがよってたかって、このオートメーション機械にエネルギーを備給するのだ。スピノザやニーチェを持ち出すまでもなく、人間は無力感やみじめさをおのれの情念として生きる限り、怨恨の人にしかなり得ない。本来、無所有であった人々は、このオートマトンによって脅迫観念を備給され、その対極にある所有マニア、消費マニアへと徹底して加工されていくのだ。そんな社会では金持ちであろうが、貧乏人であろうがみんな怨恨の人ととして、異口同音に同じ言い訳を口にするしかない――オレのせいじゃない。あいつが悪い。親が悪い。学校が悪い。社会が悪い。政治が悪い――僕らの周りは、そんな愚痴で溢れかえってはいないか――いいえ、みんなあなたが悪いんです。――もう21世紀だ。こんなことは早く自明としよう。

 人間の尊厳を最も毒しているもの、それは、こういった怨恨の人の中に現れる憎しみや哀しみの感情だ。ここが変わらなければ国も社会も変わることはあり得ない。嫉妬、復讐心、警戒心、猜疑心。こうした一連の心理構造の中で、怨恨の人が唱える生命観は、極めて卑小なものへと成り果てる。死をまぬがれることこそが生の在り方だと高らかに謳いあげる生命賛歌なんかはその典型だろう。哀れ、怨恨の人よ。 生きることも死ぬことも許されず、生きているのか死んでいるのかも分からない。そして、そのような無自覚の生の中において、今日も欺瞞だらけの個々の政治信条を吐露し続けるのだ。なんとこざかしい情念であることか。

 このように考えれば、今、世界に最も必要とされる対立軸とは、生と死の対立軸であることは明らかである。この世とあの世の対立軸である。死の広大さを矮小な生の前に展開してみせることである。しかし、それは宗教的世界観を復活させるといったような安易な方法論では決して生まれ得ない。科学主義や資本主義が作り出した人間像、世界像に、真っ向から対抗できる、永遠の相のもとの価値体系、世界観、人間観を具体的に創造していくことである。――この創造行為を、あえてここでは「死の実現」と呼ぼう。資本主義を乗り越えるものはこの「死の実現」しかあり得ない。「死の実現」なくして「生の幸福」なし。最大幸福でも最小不幸でもなく、死の実現のために、死への視界を遮蔽しているこの巨大な壁を爆破してひとり荒野へと出ていくこと。僕にとってヌース理論を構築していく作業というのは、そういうものでしかない。
(コウセン)

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