ターウォーズ以来、今や社会現象となるくらいの大ヒットとなった「マトリックス」三部作。すでに本屋の棚には、この「マトリックス」の解釈本とも言える「マトリックスの哲学」なる書籍まで並んでいる。そこで、さっそく、その本の宣伝文を拾い読みしてみた。

 特殊撮影による視覚的な効果ばかりが話題になりがちな映画「マトリックス」だが、その裏側には隠された多くの哲学的な命題が含まれている。「仮想空間に築かれた現実は、実際の現実とどう区別できるのか」「心の死は、すなわち肉体の死を意味するのか」 若手の専門家がそれぞれの立場から(実存主義、マルキシズム、フェミニズム、ニヒリズム、ポストモダニズム等)映画本編が暗示する哲学的な命題に焦点を当てたユニークな評論集。

 文化批評家のスラヴォイ・ ジジェクに言わせれば、映画『マトリックス』は哲学者・思想家のロールシャッハ・テストのようなものだという。さてさて、となると、ヌース理論は『マトリックス』に一体何を読み取るべきだろうか――。
 そもそも、わたしが『マトリックス』に衝撃を受けたのはその映像技術の斬新さだった。よって、この宣伝文にある、特殊撮影による視覚的な効果ばかりが話題になりがちな映画『マトリックス』だが――という逆接表現はこの作品の持つ本質的なメッセージを見逃していると主張できる。『マトリックス』はデジタル技術によるあのSFX抜きには語れないし、また、SFXを駆使した作品だったからこそ、深い哲学性を持った作品となり得たのである。この発言が意図するところはおおよそ次のようなところにある。

 『マトリックス』が展開する映像世界の中で何が斬新であったか――それは言うまでもなく、今ではTVのCMの中でも見かけるようになったバレットタイム(bullet time)という撮影技法だった。シリーズ中、バレットタイムが使用された最初のシークエンスは次のような光景だったと記憶している。モーフィアスがエージェント・スミスに追われ背後から無数の銃弾を浴びせられる。その時点では、カメラはモーフィアスの背後から撮っている。と、次の瞬間、スクリーン上の時間が突然、停止し、スミスも、モーフィアスも、彼らの着ている衣類も、そして、弾丸も、風さえも、あたかも凍り付いたかのように中空で凝固し、カメラワークだけがその空間上を滑るようにして、視点をモーフィアスの前方へと移動させてくる。逃走するモーフィアスは一体の彫像と化し、ピクリとも動かない。その足下で跳ね上がる水溜まりの飛沫も、水晶の粒のように空中で氷結している。圧巻だ。何だこの映像は! もちろん、こういった光景は自然界では起こり得ない、というか人間の知覚システム上、実現不可能な像である。

 この映像は一体何が可視化されているのか――瞬間、わたしの頭は一気にその答え探しでいっぱいになった。1〜2分で事の重大さに気づく。それは、それまでの映像概念を一歩違う次元へと運んだ一種の脱-表象化の世界、絶対的外部の可視化と言ってよいものであった。カメラが動いている時間は、当然のことながら、物語の外部で流れている時間である。つまり、一瞬の中の永遠性へとカメラは入り込んでいたのである。バレットタイムならぬヌルタイム。時間の切断面である一瞬という名のクレパスから、絶対的同時性というローレンツ変換対称性の世界に入り込み、光の眼と同等の視力を持つに至ったカメラの目。それはまた多視点からの同時的視点の実現でもある。このカメラワークによって目撃されていたのは、およそあらゆる人間の世界線を同時に共有する、どことも言えない場所、いつとも言えない時間が存在する永遠の地の風景だったのだ(ウォシャウスキー兄弟はこの時間の流れを無数のデジタルビデオカメラを並べ、一挙に同時撮影し、後でコマ単位で編集することによって作り出したという)。

 このような、どこともいえない場所、いつとも言えない時間の風景をイマージュで描き出そうとした映像作品は過去にいくらでもあった。アラン・レネの「去年マリエンバートで」、S・キューブリックの「2001年宇宙の旅」、A・タルコフスキーの「ストーカー」など、例を挙げればきりがない。しかし、この『マトリックス』ほど観る者の直接体験として、赤裸々に、光の時間、光の空間の映像化に成功した作品は他に類を見ない。この作品に至っては、すでに技術の力の方が人間のイマージュや物語の力を追いこしてしまっているのだ。この物語にいかに多くの哲学的な命題が隠されていようが(個人的には伝統的なハルマゲドンものにしか思えないので)、このたった一つのシークエンスにおける撮影技術がもたらした強度の方がわたしにははるかに哲学的だった。

 光の視力の追体験を可能にする現代のデジタル技術、さらには、それを通して生産されてくるデジタルカルチャーとは一体、何なのか――。このような問いが上がってくるからこそ、この映画は、仮想現実と地上、地上と天上という三つどもえのボロミアン環の中に幾重にも思考の捻れを作り、無意識のうちに様々な論議を呼ぶ作品となっているのだと思う。奇しくも、この映画のラストの方で、ネオがマシンシティの支配者らしき存在にこういう台詞を吐く。「おもえたちにもスミスは止められない。」まさにその通りではないか。この果てしなく加速していくデジタル化の猛威はもう誰にも止められるものではないだろう。人間も機械もそろってコンピュータに奉仕するという時代はすぐ先に見えている。世界はすでにスミスの巣窟なのである。
 ザイオンに怒濤のごとく攻め入ってきたあの機械たちにはまだ理性があった。それは、命令系統で動く純粋な機械だからである。機械はスイッチを切れば止まる。事実、そうであった。だから、人間は機械と持ち場を分担し、それなりの共存共栄が可能となったのだ。しかし、スミスは違う。彼はマシンではない。マシンさえも奴隷にすることのできるメタ機械、無底の底に潜む虚無の増殖力なのだ。だから、当然、人間ごときにスミスのスイッチを切ることはできない。誰しもがスミスの奴隷となるしか術はないのだ。もし、彼に対抗できる者がいるとすれば、それはスミスと対極にいるネオのような超人的存在だけだろう。では、スミスと対になって現れたこのネオなる者とは一体何者なのか。残念ながら、この映画ではそれが明らかにされることはない。

 20年ほど前、エレファント・マンという映画がヒットした。鬼才D・リンチの出世作となった作品だ。公開後にリンチは「この映画を観に来たという事実、それを観客たちに重く受け止めて欲しい」という旨のことを語っていた。当時、派手に流されたTVの予告スポットではエレファント・マンの醜さは意図的に隠される。そして、多くの人々が恐いものみたさに映画館へと足を運んだ。エレファント・マン大ヒット上映中。そういう観客たちの姿を見て、君もまたこの映画に登場する見せ物小屋の主人と同類なのだよ、とリンチは意地悪くほくそえむ。多少、状況は異なるが、『マトリックス』にもこれと同じシニシズムを感じ取ることができる。最先端のデジタル技術を駆使した驚異のSFX映像。観客を圧倒するヴァーチャル世界。そこでは、当然、音響、音声からミキシング、編集作業のすべてにわたって最新のデジタル技術が駆使されている。まさにマトリックス帝国の産物というわけだ。しかし、この映画の物語設定のように、もし、われわれの世界自体がすでにマトリックスの中の仮想現実であるならば、われわれが生み出したデジタル技術に表現された世界とは、マトリックスが作り出したマトリックスのコピー、すなわち、コピーのコピーの王国ということになるだろう。これが映画の中ではエージェント・スミスとして象徴されている存在であることは明らかだ。 スミスは自分の複製をいとも簡単に作り出し、マトリックス内のいかなる人物にも変身することができる。その意味からすれば、本作の主役はネオではなくスミスの方だと言うべきかもしれない。『マトリックス』はほかならぬスミスが生み出した作品なのである。それを観るために、われわれはこぞって映画館に足を運ぶ。君はポップコーンを片手に、片やコーラをガブ飲みしながら「なんて執拗な奴なんだスミスは」と憤慨する。そんなこと言ったって、君だって同じ仲間だろ、というわけである。

 可視化の体制。今わたしたちにとって最も危惧されるべきは、環境問題でも人口問題でもない。このデジタル技術によってもたらされた恐るべき新体制の問題であろう。文字が影響力を失って久しいが、いまやわれわれは映像に対するイマジネーションさえも死滅させつつある。象徴界は勢力を失い、次なる餌食は想像界というわけだ。カオスや深宇宙がコンピュータによって可視化され、ミクロ世界やマクロ世界のみならず、いまや見えない精神の世界までもが、可視化の体制によって領土化され、資本主義のシステムへと組み込まれようとしている。眼が持った限りない窃視の欲望。その暴力的ともいえる狂気の眼差しによって、もはや真に見えないものはその命脈を断とうとしている。それを遂行してきた欲望の力は、この映画の中ではメロヴィジアンなる人物として象徴化されている。
 映画の最後の方でオラクル(預言者)はいう。人間界のバランスを保ってきたのはメロヴィジアンであったと。欲望を現実化すること、夢を実現すること。想いを達成すること。それらは人間の心の中に生まれる外界と内界の不均衡のバランスを取ることにほかならない。それは想像的自我同志が持った果てのない鏡地獄における鏡像交換である。「そのバランスを壊すのがわたしの役割なの」と言ったオラクルは、精神分析的文脈から言えば、まさに人間にとっての真のリアルを司る現実界の見張り番であった。ドゥルーズ的に言えば、それは、おそらく、女、子供、老人である。オラクルは、編み物をしたり、料理を作ったり、子供をあやしたり、およそ文明の進化、歴史の進化といったロゴス的な営みの陰に隠れた、どこにでもある日常の非人称的な風景の中に棲んでいる。ここには、野生の秩序からも、人間の社会秩序からも逸脱した、ただそれがそれでしかないようなむき出しのマテリアルの営みがあるのだ。自然界と人間界の中間にある何とも形容のしようのない無名性の風景。わたしが見たとか、あなたが見たとか、そういった主体的意義がいかなる意味も持たないような風景。そのような風景がオラクルの風景であると言っていい。考えてみると、このオラクルの風景は先に挙げたバレットタイムの風景に似てはいないだろうか。あらゆる人々の世界線を共有した空間がそこには垣間見える。どこにでもあるからこそ、どこにもない場所。誰もがそこにいるからこそ、無人であるような場所。それはある意味、言葉を欠いた知覚対象そのものの有り様でもある。ドゥルーズは次のように言う。「知覚対象perceptは人間以前の風景であり、人間の不在である風景である」と。われわれが無為の中で無為として生きるとき、ここには決して意味づけされることのない、もの自体の生活がある。

 さて、物語の方に戻ろう。果たして、ネオは戦いに勝ったのか――。残念ながら、それは明らかではない。いや、この物語が、ナウシカやエヴァを踏襲し、エンディングにありきたりの英雄伝的なクリシェを採用したことは、明らかに失敗だったし、ネオなる者など結局どこにも登場しなかった、と言っていいのかもしれない(アニメに精通している日本人にとっては、一気にしらけた気分にさせられた人も多かったのではなかろうか)。願わくば、matrix&mbsp;revolutionとタイトル化したからには、この21世紀において、革命(再び巡り来るもの)を語る意義、またそのビジョンについて何らかの新しい示唆をしてほしかったとも思う。第一作目が一大センセーションを巻き起こしただけに、こんな結末では、単なる神話の反復でしかなかったと手厳しく批判されても仕方ないだろう。神話を単なる神話として反復していく限り、ザイオンにもまた何も変わらぬ明日がやってくるだけだ。同一の明日が明日もまた繰り返される限り、われわれは誰もスミスの増殖を止めることはできない。では、そんな、われわれに希望はあるのか。日ごとに勢力を増していくデジタル化の波の向こうに何らかの希望の大地が約束されているのか。原作者が意図したかどうかは定かではないが、幸いなことに、ここには一縷の希望があると言ってよい。それはエージェント・スミスがさりげなく吐いたあの一言の台詞の中にある。わたし個人は、真のネオの出現をそこに予感するのだ。――アンダーソン君、われわれは似た者同志なのだよ。
(コウセン)

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