■FUTURE CINEMAを生きろ!

<第四の見えないものを求めて>

●全的可視化の体制

う5年ぶりぐらいになるだろうか。 東京オペラシティ内にあるインターコミュニケーション・センター[Inter Comunication Center : ICC]へと久々に足を運んだ。[ICC]とはNTTが電話布設100年を記念して1990年に発足させた事業体である。一応、アートとサイエンステクノロジーの接点を模索しながら、新たなミュゼオロジーの実践を目的として作られた施設ということになっているが、オペラシティ自体の何ともダサイ景観と、作られた時期を考慮すると、幾分、バブル的発想で生まれた施設という気がしないでもない。実際、この日も日曜日の午後にもかかわらず人影はほとんどなく、施設内は閑散としていた。ただ、ICC自体はたまに斬新な作品を見せてくれるので、時折ネットで検索してはその活動状況をチェックしている。今回は「FUTURE CINEMA─来たるべき時代の映像表現に向けて」という展覧会が開催中であるということと、常設展示作品が大幅にリニューアルされたという理由から、興味本位で覗きにやって来た。


 前口上はともかくとして、この「FUTURE CINEMA」というタイトル……未来の映像? 映像の未来? どちらの訳をとるにせよ、耳障りはよい。が、しかし、FUTURE CINEMAって一体何なのだ?映像文化に未来なんぞがあるのか?「ラジオスターの悲劇」に象徴されるように、映像テクノロジーの発展はつねに〈見えないもの〉のアウラを剥ぎ取っていく役割を担ってきた。フィルムからビデオテープへ。ビデオテープからDVDへ。ハリウッドのSFX技術が高度になればなるほど映画はその現実感を喪失し、DNAや銀河宇宙といった不可視の空間がデジタル解析によって映像化されればされるほど、僕たちはサイエンスが描き出す宇宙像に興味を失っていく。こういった知識欲の減退は何も自然科学の分野に限ったことではない。毎日のようにメディアで流されるニュースには、監視カメラが捉えた銀行強盗の映像から、芸能人の密会デート現場やドラッグディーラーの生態、そして例のバグダットでのテロ事件に至るまで、ありとあらゆる種類の映像が氾濫している。苦悩する社会、迷走する社会、猥褻する社会、殺戮する社会。そこではあらゆる生の営みの舞台裏が暴露され、ヘア解禁の写真週刊誌よろしく、出来事の背後に潜む不可視なるものへの僕らのイマジネーションを台無しにしてしまう効果も幾分含んでいる。このような映像の過剰な供給が作り出す全的可視化の体制は、果たして本当に「見えないもの」を見えるものへと変換していると言えるのだろうか。事の本質は正反対なのかもしれない。テクノロジーが達成してきた不可視から可視への開示は「見えないもの」の領域をただいたずらに蕩尽し、あたかも「見えないもの」がすでに可視のものとなったかのような錯覚を与えているだけなのではなかろうか。解剖されそこら中に散乱させられた臓物としての身体に代表されるように、自然も社会も人間精神も、窃視願望を持つ理性のレーザービームによって切開され、その臓物を力づくで外部へと引っ張りだされる。それゆえに僕らの抱える闇はより一層深いものとなり、痛みはより悲痛なものとなる。こうした映像の現在進行形において、一体いかなる未来が待ち受けているというのか。FUTURE CINEMAにどれほどの可能性があるというのか。それがこの展覧会に対する僕の主たる関心事でもあった。


●第四の「見えないもの」へ

 「見えないものを見えるようにすることが絵画の役目である」と言ったのはパウル・クレーだったか……。元来、絵画に始まる視覚芸術は「見えない世界」の見え様を描くことを追求してきた。それゆえ視覚芸術の歴史は、この「見えないもの」の変遷とともにその様式を変化させてきたとも言える。歴史における「見えないのもの」の段階的発展の類型、それは次の三つの種類に大別することができるだろう。

1、内在的で見えないもの。
2、超越的で見えないもの。
3、主観的で見えないもの。

 「内在的で見えないもの」とは、アニミズムやトーテミズムの中で動物や植物の姿となって表現されている内的生命の力のことと言っていい。いわゆる「精霊たち(spirits)」のことだ。プリミティブ・アートが描き出すこの野生的思考の表現様式には、この内在的な精霊がはらむ神秘的な力に満ちあふれている。「超越的で見えないもの」とは預言宗教の中に現れた。いわゆる万能の神のことである。オイディプスによってスフィンクスは退治され、律法の神が父なる神として出現したのである。神は自分に似せて人間を作り給うた――神の似姿としての人間、ならびに、人間の似姿としての神。 この神の出現によって、海や山や森、そしてそこに棲む生き物たちの中にうごめいていた「見えないなもの」はその大方が神の忠実な下僕たる「聖霊たち(holly gohsts)」へとその姿を激変させていった。 それらは数あるイコンや宗教絵画の中に、または、寺院の壁画や彫像の中に、図像的なものとして表現されている。この野生の神から人の姿を取る神への移行は、当然、「見えないもの」の本性が知覚的なものから言語的なものへと移行したことと無関係ではないだろう。そして、次にやってきたのが〈わたし〉の中の「見えないもの」、つまり「主観的で見えないもの」を追い求める近代の神たる主体(コギト)だった。 19世紀末に現れた印象派以降のモダン芸術の流れは、そのほとんどがこの主観にまとわりつく「見えないもの」を表現の対象としてきたと言っても過言ではない。ピカソが泣き、ダリが時間を曲げ、ムンクが叫び、シャガールが翔んで、ウォーホールが複製する。それら名前の芸術は現代人それぞれの中に潜む秘私的な欲望の増殖と解体の現場をそれなりの観察眼を持って描き出してきたには違いない。しかし、今の僕らは、そういった個的なイマジネーションの垂れ流しにはすでに食傷気味になっているはずだ。そういつまでも、主観の奥底にたまった沈澱物を吐き出していても仕方ない。表現のスタイルが旧いだの新しいだのが問題なのではない。芸術全般による表現活動が僕らを別の生き物へと変える可能性がないことに僕ら自身うすうす気づき始めている。グローバリズム社会に生きる生活者の閉息的な心理状況を描いて問題提起したところで一体何になろう。一夜明ければ忘れ去られてしまう程度の感動や感銘を他者に伝達して何になろう。ゴミのような文学、ゴミのような美術、ゴミのような映画、ゴミのような音楽。少なくとも日本のシーンを見る限りはジャンク・アート以外のアートを探す方が難しい。今や芸術が世界を変えることができるなどとはアーティスト自身さえ思ってはいない。世界はもう何も変わらないのだ、という、この二重、三重にもとぐろを巻いた絶望的状況が僕らの憂慮すべき当面の問題である。とすれば、すべての芸術、すべての芸術家、すべての芸術作品、およそ芸術と名のもとに活動するすべての思考者たちは、その視線を第四の「見えないもの」へと向けなければならない。それは無論、「内在的な見えないもの」でも、「超越的な見えないもの」でも、「主観的な見えないもの」でもないだろう。それら三者とは全く異なった、来るべき何かのための「見えないもの」へと、である。


●〈反重力〉と〈死の場所〉

 さて、今回、展示されていた作品群についての感想だが、なるほど"FUTURE CINEMA"と銘打っているだけあって、幾つかの作品がこの第四の「見えないもの」をめぐって模索していた。二点ほど興味をそそられる作品があったので簡単に紹介しておきたい。

Pedestrian

 ひとつは、シェリー・エシュカーとポール・カイザーによる「歩行者(Pedestrian)」という作品だ。この作品は、床一面をスクリーンにして、天上から吊り下げたプロジェクターで町並みを歩く歩行者たちのCGアニメーションを映しだ出すという作品だ。離れて見ている限りは、単に床に映像を写している以上の何物でもない。しかし、実際、その床の上を歩行してみると、自分が作品の空間の中に入り込むのが分かる。眼下に街の雑踏を眺めおろしている錯覚に陥るのだ。その視点は俯瞰というほど高いものではなく、せいぜい上空10m程度から見下ろす程度だ。で、この高さの具合が何ともいい。まるで、ヴェンダースが描いたあのベルリンの天使に変身して、行き交う人々のそれぞれの人生を覗き込んでいるかのような感覚に襲われる。毎日を一生懸命生きているひとりひとりの歩行者がついつい愛おしくなってしまうのだ。実写ではなくCGを使用している点も幸いしているのかもしれない。作品に押し付けがましさがなく、個的生活者の生々しさが削がれていることによって、歩行者たちへの必要以上の思い入れも起らない。それによって、かえって「見えないもの」のリアルさが伝わってくる感じがするのだ。そのライトな感覚も手伝って、文字どおり反重力的な作品となっている。


 もう一点は、藤幡正樹&川嶋岳史による「フィールド・ワーク@アルザス」という作品である。今回の展示作品の中ではこの作品がズバ抜けていた(ように思う)。というか個人的好みだったというべきか。

fieldwork@alsace

 作品を上映する機材設備(ケイブシステムと呼ばれる三次元のホロムービー装置のようなもの)の工学的な仕組みについては詳しいことはよく分からない。何でもパンフレットを読むと「GPSとDVカメラを組み合わせた独自のメディア装置で旅を記録し、そのデータをCAVEシステムの中で3D地図上のヴィデォ・アーカイブとして展開する」とある。難しい(笑)。ざっと説明するとこんな感じだ。
 作家自身がアルザス地方を旅して、そこで見た風景や出会った人々との会話の様子などを、そのときどきにおいてDVで撮影し、それらの記録映像を三次元空間中に浮かぶ無数の二次元スクリーンに列挙して映し出す。このアーカイブ(画像保管庫)は、専用の眼鏡によって3D映像として鑑賞でき、三次元世界での出来事(アルザスでの旅路で起きた出来事や人々との出会いなど)は、その空間中に浮かぶ複数の平面状ディスプレイに時系列別に映し出される。当然ながら、各々の平面状ディスプレイ上には一つの出来事のシークエンスが展開されているわけだが、この3D映像の中では、それぞれのシークエンスがあくまでも二次元の射影空間として強調され、各ディスプレイは必ずレーザービームのような光線によって縁取られた四角錐の底面に埋め込まれて配置されている。さらに、それらの四角錐の頂点群(おそらくこれらには主体の視座の意味が込められている)は、この3D空間内でうごめくより上位の幾何学的な組織体に接続されており、このネッワーク構造全体が、立体視される3D空間の中で平行移動したり、回転したり、収縮、膨張したりと、様々な表情を持って脈動していくのだ。僕自身はこの作品から、ドゥルーズが「差異化=微分化」「異化=分化」と呼んで区別した、意識における潜在的なものと現働的なもの(ヌース理論が「人間の外面」「人間の内面」と呼ぶもの)の対比をすぐに連想した。二次元上の直載的な記憶群と、それに様々な意味を付与する三次元上の幾何学的構造体。まさに、有機的なものと無機的なものの差異が明瞭なコントラストを持って表現されている。おそらく、これは、記憶の貯蔵、加工システムとしての高次元機械なのだ。鑑賞者は当然ここて生起している構造変動のマシニズムを一望できる空間に投げ込まれ、まさに意識空間に出たかのような気分を味わえる。ここで展開されている機械状のアレンジメントは生きる〈わたし〉自身、生きる実存そのもの――。四次元を変動させるこの機械は、あるゆる時間、あらゆる場所に瞬時に降り立ち、そこでの出来事をあるがままに回収する。そして、その光景を過ぎ去った過去として録画するのではなく、常時、定在する現在から、瞬間瞬間を進行していく現在へと多重に投射することのできる映写機として働く。その映写機とは、言うなれば〈死の場所〉〈死の高みにおける場所〉とも呼べる空間からの眼差しに他ならない。こういう作品こそが仮想現実と呼ばれるべきだ。表象を模倣するのではなく、意識そのもの、時間が外れたものを模倣すること――。われわれのリアルはこういった場所にしか存在し得ない。リアルとは不変だからこそリアルなのだ。

 *   *   *   *

 僕らの身体が「肉」である時代はもう終わりを迎えつつあるのかもしれない。まもなく、身体は〈死の空間〉という第四の「見えないもの」へと転身を遂げていくことになるだろう。そして、この第四の「見えないもの」を可視化する技術が"FUTURE CINEMA"と呼べるものであるならば、それは死者たちが所持する思考の力によって無限のメタモルフォーゼを果たしていくことになるに違いない。そのとき、わたしたちは「受肉したロゴス」「救済者」の何たるかを知るに至るのだ。ならば、君は迷うことなくFUTURE CINEMAを生きろ。なぜなら、それは君が生まれたときからすでに始まっているのだから。

映像2点
・pedestrian………「歩行者」
・fieldworkalsace………「フィールド・ワーク@アルザス」

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