7月 17 2005
顔
ヌース会議室の方で、Uさんという方から、ヌース理論に登場する「位置の等化」という用語についての質問があった。
http://noos.ne.jp/forum3/c-board.cgi?cmd=one;no=3507;id=noos
「位置の等化」とは、端的にいうと、モノの裏側に真の主体の位置を見い出すことである。自他がともに「モノの裏側」に自身の真の主体性を発見することによって、世界はまさに人間不在の知覚風景そのものの場所にになる。ヌース理論が語る「ヒト」とは、そうした場所における「モノ」のことである。そこで、Uさんは尋ねてきた。モノの裏とは顔のことですか?——と。………するどい。
今日も顔がやってくる。
まるで、彗星のようにして、
すべての歴史をたなびかせながら。
顔と顔が対面するとき、
出会うのは、過去と未来。
そこで二人は永遠を欲望する。
顔と顔が対面するとき、
現れるのは、光と闇。
そこで二人は善悪を欲望する。
だから顔はすべてを知っている。
恐怖の怖さも、
歓喜の喜びも、
悲哀の悲しさも、
憎悪の憎しみも、
苦痛の痛さも、
快楽の楽しさも、
そう、すべては顔なのだから。
顔とは存在の両端に位置する二つの性。
ならば、顔とは神の性器である。
汝、殺すなかれ——。
すべての顔は歓待されなければならない。
すべての深い精神は仮面を必要とする。
いな、それどころか、すべての深い精神のまわりには絶えず仮面が生長する。
彼の発する一語一語、彼の足取りの一歩一歩、彼の生のしるしの一つ一つが、絶えず、間違った解釈に、すなわち浅薄な解釈にさらされるためなのである。
──ニーチェ『善悪の彼岸』
8月 3 2005
無意識のモンチッチ
「カルナ」という雑誌の取材を受けた。NCジェネレーターの話題を聞きつけ、さっそく特集記事の中に組み入れたいという。「カルナ」はもと「気マガジン」という雑誌名で、今年で創刊20周年になる老舗の雑誌である。最近は、気功をベースに、古武道系やアユル・ヴェーダ系の記事を中心に編纂されており、購読者の年齢層もかなり高めを設定しているようだ。古武道や中国気功のファンにどれほどヌースの考え方が伝わるかは蓋を開けてみなければ分からないが、インタビュー記事は6ページほどに渡って掲載される予定だ。インタビュー内容はもっぱら「人工的な機械で気を発生させるとはどういうことなのか」に的が絞られている。わたしは自分のコンセプトをありのままに淡々と答えた。気とは何か。病気とは何か。治癒とは何か——。受け答えの中に、ゲージ対称性や高次元と言った言葉が出てくるので、一般読者には難解、科学通には「トンデモ」と受け取られてしまうかもしれないが、わたしは直球ストレートでしか勝負できないタイプの人間だから、それはそれでいい。
少しうれしかったのは、編集長がNCジェネレーターのビジュアルをいたく気にいってくれ、表紙にも使わせてもらえないかと依頼してきたことだ。ありがたい話である。ジェネレーターの内部を明瞭に出すのははばかられるので、結局、わたしと機械、ご両人仲良く並んで撮ったスナップ写真を提供することになった。
結果、NCジェネレーターを前にほくそえむ半田広宣氏——そういう構図の表紙になってしまった。「New Yorker」や「Forbs」の表紙じゃなかったのは残念だが、日本の一精神世界系の雑誌とは言え、わたしの顔が表紙を飾るのはやはり画期的なことである。決して自慢できるルックスではないが、この手の世界で活動している人たちの中では明朗快活な部類には入るだろう。ただ、一つ不満なことは年相応の威厳がないことだ。昨日、表紙のラフが届いたのだが、予想通り、モンチッチ系の顔に写ってしまっている。カメラがおかしいのか、光が偏向しているのか、わたしはいつもモンチッチ系の顔に写ってしまう。
何かが変だ。いや、変ではない。写真こそが事実。君はモンチッチなのだ。前号は作家の五木寛之氏や佐藤愛子氏が表紙を飾っていたので、まぁ、よしとするか。しかし、この表紙のポートレイト、何かが不自然である。見ようによっては、二昔も三昔前の「明星」や「平凡」を彷彿とさせないこともない。こりゃ、ポーズがまずかったかな。。。わたしのモンチッチ顔に興味がある方は、盆過ぎに大きな書店には並ぶと思うので是非、そちらをご覧になるといい。
写真は無意識を写すと言ったのは確かベンヤミンだったか。わたしがわたしの写真をまじまじと見るということは、他者のわたしの容貌に対する無意識をえぐり出すことになる。——うーむ、老けたものだ。今度は若返りの機械でも研究することにしよう。
By kohsen • 06_書籍・雑誌 • 2 • Tags: NC-generator, ゲージ対称性