君よ、精神のアーキテクトたれ

記憶の実在感を取り戻そう。記憶は魂の力能だ。「過去は過ぎ去って今はもうない」というのは、現在の傲慢だ。むしろ、過去の方が去来する現在を見続けているのである。その意味で、存在しているのは現在ではなく、過去である。過去の濃度を取り戻すこと。そこに主体のフランチャイズを置くこと。
 
この時間的な重心移動は同時に、例の観点の球面化と連動している。主体を世界の中におくのではなく、世界を主体の中におくイメージ。観点を世界に包まれた点として捉えるのではなく、観点を球面化し、逆に世界をその中に包み込むイメージ。このとき出現してくる球体を文字どおり球体として知覚できる認識を鍛え上げていくこと。それが魂と呼ばれていたものに他ならない。
 
人間の空間認識は一方的に物質方向に開きすぎている。これは比喩なんかじゃない。ダイレクトな空間知覚の問題として言っている。主体が世界を包む空間側においては、すべての位置は同じ位置なのだ。その不動の位置感覚がわたしたちが「記憶」と呼んでいるものの正体だ。
 
物質として開かれた空間と、記憶として閉じた空間。この相互に反転した二つの空間の差異が見えてくれば、どちらが生の実体であるのかはすぐに判別がつくことだろう。物部の民たちが生玉(イクタマ)と死返玉(マカルガエシノタマ)と呼んだ二つの玉の関係がこの両者にはある。
 
生玉(イクタマ)を取り戻すこと。それは魂の浮上であり、浮上した魂は霊の発芽となる。
 
こうした表現がオカルティックに聞こえるなら、哲学の言葉に置き換えてもいい。ここでの話はライプニッツ=フッサールのラインを辿れば、自己のモナド認識と言っていいものであり、この位相に立って初めて思考は先験的な相互主観性、相互モナド認識の場を実体的に形成できるようになる。それが物理学がスピノル場(クォークのアイソスピン空間)と呼んでいるものと考えるといいだろう。
 
わたしたちはここにおいて、「位相─微分─射影─アフィン─ユークリッド」という幾何学のヒエラルキーを逆に辿り、最も深い霊的幾何学の場へと到達し、精神のアーキテクトとしての能力を持つに至る。
  
思考は創造空間=死後の空間を開くことができる。嘘は言わない。もちろん、それが完全に開くまではかなりの時間はかかるだろうが、人間の意識はその方向へと向かう転機を迎えている。
 
まずは、物質側へと開いた空間から、記憶側へと閉じている空間に自らの生の重心を移動させよう。それがヌーソロジーが活動している場所である。

can you see it?