シオリズムの「近さ」と「さなか」

そして、地球は私達の正面側には居ない・・・言い換えると、私達が地球を正面に見ようとした時は、背後側にいるため、地球と戦っているつもりが、自身の体内と戦っている、というような事となっている。。地球が憎い=自分の体内が憎い、「私が私を憎い」という自己破壊の原因。―もののけのしおり 2017年3月12日(日)
 
 
地球は私達の正面側には居ない―ここで言ってる「私達の正面側」というのは、あくまでも3次元認識における「前」のことだから、ヌーソロジーのいう「奥行き」と勘違いしないようにして下さいね。3次元認識では「前」は「見られているもの」側になっていて、それは「後ろ」も同然だということ。
 
「後ろ」の語源は「丑(うし)」+「ロ」。これは、絡まってもつれている空虚、といったような意味。光学的なトリックに引っかかってしまって、僕らは前と後ろさえ区別できなくなってしまっているってことだね。そこからまともな知性なんて立ち上がるはずがない。対象知はすべてトリックだよ。
 
「何が絡まってもつれているのか」ということになるのだけど、当然、自他における「見ること」と「見られること」の糸、ということになるね。ほんと、もう、もじゃもじゃしてる。それが人間の想念というやつだね。対象で思考している空間の風景。前と後ろの分別さえないんだから仕方ない。
 
「見る」という知覚は二重になっていて、前と後ろの重なりによって初めて成立するのね。赤ちゃんのとき対象が知覚に上がらないのも、赤ちゃんがまだ後ろを知らないからだと思うといいよ。純粋な前(奥行き)は持続空間だから、表象を切り取ることができないんだよね。
 
後ろの空間で活動しているものが言語だという言い方もできるかもしれない。自他が後ろの空間(見られる空間)同士を結合させたところに、言語による概念の生成が起こっている。僕らが現実と呼んでいるものは、皆、こうした「見られること」を共有したところに働いている概念の生成物。
 
自己や他者といった概念を供給するこの始原的前と後ろのキアスムがカタチとして表現されているのが、物理学が扱っている複素2次元空間だね。これが伝統的にマカバ(メルカバー)と呼ばれているものだと考えるといいと思う。
 
この幾何学的関係の中からいろいろな組み合わせが生じてくる。物理学だったら、スピノルを元にしてスカラー(時間)やベクトル(空間)、テンソルと呼ばれる量になり、精神分析だったら、現実界をベースにして象徴界や想像界のトポロジーが構成されてくる。仏教でいう法身・報身・応身の三身関係だね。
 
世界の内部性と外部性も同じで、内部性は円、外部性は双曲線という形式をとる。円はどんどん多層化し、双曲線はずっと双曲線のまま。
 
物質の仕組みをつぶさに分析していくというのは、認識が実体から遠のいていくということ。現代科学はこの遠のきによって発展してきたんだね。実体はとても慈悲深いので、この遠のきに対してフィードバックの梯子をかけてくれる。結果、この梯子が科学者たちには物質の構造として見えてくるという仕組みになってる。
 
遠のかなければ、物質に構造なんてものないんだよ。シオリズムはその”近さ”、もしくはその”さなか”の中で世界を見ているね。
 
ヌーソロジーの場合は、こんなに遠くまで来てしまったのだから、そろそろこの梯子を昇って、一段一段、回収していってもいいんじゃない、って訴えかけている。そんなところかな。
 
※画像はhttp://www.urbanpicnic-streetphotography.comからお借りしました。

近さとさなか