一本の線の出現から何が始まるのか―

以前、外部は内部だという話をした。これは、君が奥行きの中で感じ取っている宇宙は対象の中にある、ということを言っている。他者についてもおそらく同じことが起きている。その意味で、自他の出会いの場所とは、本当は対象の中にある。人間の意識はこの出会いの中で構成されている。
 
超越論的な場は対象の中にあるということだね。
 
こういうと、すぐに物質の中に思考のベクトルが向いてしまいそうだけど、それは賢明じゃない。すでに外部は内部なのだから、目の前にあるがままの空間でその構成を思考して構わない。わざわざ物質の中に入り込むイメージを作る必要はない。空間に自分の不動性を感じたならば、そこはもう物質の内部。
 
そう考えるといいよ。
 
そこに出現してくる空間が物理学が内部空間(アイソスピン空間)と呼んでいる空間に対応している。生粋の複素2次元空間だ。「生粋の」と言ったのは、この場所に出るまで、外部と内部が混交した空間が二つあるから。
 
その二つというのが位置表示の波動関数ψ(r,t)が作る空間と状態ベクトルψが回転している空間と考えるといい。
 
知覚イメージで言うと、一つの対象周りの空間と自分の周囲の空間。これらはまだ非局所に届いていない。「非局所に届く」というのは、観測者の全奥行きが一本の「線」に収束することを意味している。
 
つまり、完全なる持続空間においては「わたしは一本の線となる」わけだ。
 
 
メスカリンの服用によって、自分という存在が一本の線に還元されてしまったことに詩人アンリ・ミショーは底知れぬ恐怖を感じ、それを「死」の姿と直感したのですが、それは人間の死の形象と言ってよいものだと僕自身も強く感じています。
 
つまり、わたしの死は、時空間上では物理学が「スピノル(物質粒子のスピンにあたります)」と呼ぶものに姿を変えて見えている(実際には見えるものではありませんが)と言っていいのではないかと思います。
 
このスピノルはそこから物質を生成していくために、多様な組織化を図っているわけですから、死後の世界は物質を創造する世界になっていると言えそうです。
 
これまたOCOTのトンデモ情報の話になりますが、その中に「まもなく人間は生きながらにして死後の世界に入っていく」というのがありました。
 
ヌーソロジーの文脈からすれば、自分を一本の線へと還元したときに世界の構成はどのように見えてくるか、そこで展開されてくる風景が、この「生きながらにして死後の世界に入っていく」ということの意味に相当しそうです。死が開く、ということですね。
 
こうして開いた死のことを「霊」と呼んでいいのではないかと思います。ヌース(神的知性)を持つ者たちのことです。

一本の線