木の実と食べる鳥と見つめる鳥のお話再び

目の前の空間には二種類の空間が重なり合っている。この二重の空間知覚のことをヌーソロジーではバイスペイシャル(bi-spacial)感覚と名付けることにした。一つは時空、もう一つは素粒子の空間だ。
 
時空は経験的自我の活動母胎となり、素粒子の空間の方は超越論的自我の活動母胎となっている。ヌース的には中和側と等化側と言っていいように思う。人間は中和先行型の意識を持つために、この超越論的自我が活動している空間の方は無意識の中に眠っている。
 
この、超越論的自我が活動している場所が持続空間だ。
 
ヌーソロジーが目指しているのは、この経験的な自我と超越論的な自我の主従関係を逆転させた空間認識を作り上げること、ということにでもなろうか。自分というものを作り出しているもの側の空間的な組織を認識に露わにするということだ。
 
シュタイナーとのコラボ本の作業をやってハッキリと分かったが、この超越論的な自我が働いている世界がエーテル界ということになる。物質界の意識から、エーテル界の意識へと意識の在り方を変える、ということ。いや、より正確に言うなら、これら双方の意識の両刀使いとなること。それがトランスフォーマー(変換人/人間を変形していく者)のイメージでもある。
 
経験的自我は言語と概念に傾いている。その傾きを超越論的自我の方へと是正している働きがある。それが、僕たちが知覚や感覚と呼んでいるものの世界だ。その意味で、知覚や感覚は超越論的なものの世界を探る手掛かりにはなるが、それだけに頼っても、結局のところ、傾きの是正以上の域に出ることはできない。回り回って、また経験的なものを反復するだけに終わってしまう。
 
ヌーソロジーには身体性(人間の生身の経験性)が欠如している、といった批判をよく受けるのだけど、感じることを蔑ろにしているわけじゃ決してない。感性的なものにいくら意識的になっても、ここで言ってる「超越論的なもの」を露わにすることはできないと考えているからだ。顕在化はヌース(能動思考)が先手でないと起こりえない。これは感覚を先手に持つということとは違う。そう独断して、まずは、持続における場所性を作ることが最重要だと、決め打ちしている。
 
つまり、超越論的なものは感じるものではないということ。それは、ドゥルーズやOCOTの言い分を参考にする限り(笑)、「感じさせているもの」なのだ。それは感性のような受動的な働きではなく、敢えて言うなら、能動的な感性の働きなのだ。
 
たとえば、誰もが目の前に点をイメージすることができる。しかし、その能力がどこからやってきているのかは誰も知らない。それをやらせているものがいるから、僕たちはそれができる。この「やらせているもの」側の正体を露わにしていくのが、ヌースの思考だと考えるといい。
 
つまり、世界には、「感覚されるもの」と、「感覚するもの」と、「感覚させるもの」とが存在している、ということ。僕らは、もちろん「感覚されるもの」と「感覚するもの」の中で生きている。だけど、肝心の「感覚させるもの」の世界がどこにあるのかが分からなくなっている。
 
これら三者の関係性は『シリウス革命』で紹介した、例のウパニシャッドの逸話と同じ関係を語っている。すなわち、木の実、食べる鳥、見つめる鳥の三者の関係だ。
 
食べる鳥(感覚化するもの)は、一生懸命、木の実(感覚されるもの)を食べているわけだが、食べる鳥を、その背後で一生懸命見つめている鳥がいる。それが、さっき言った超越論的な自我に当たるのだと考えるといい。そして、感覚するものが感覚しているものとは、実は、この見つめる鳥の影でもあるということなのだ。
 
物質と精神はそのようにして、三位一体のトリアーデのもとに一つの円環を描いている。この円環を再生することが、万物復興の意であり、宇宙を正しく見る視座であると言える。
 
エーテル界が見えてくれば、この詩的な寓話的ビジョンは、実在的な確信に変わってくるはずだ。

木の実と食べる鳥と見つめる鳥