ヌースの量子解釈からイメージされる21世紀の思考のテーマ

今度(12/9)のヌースアトリウムの資料作りをしないといけなくなってきた。お題は「SU(2)の描像について」。
 
今回はシュタイナー研究者である福田氏の講演の前座で持ち時間が2時間ほど。なかなか厄介なテーマなので、組み立てに苦しんでる。数学的な詳しい解説は翌日曜日のΦさんのレクチャーでいろいろとあるだろうから、あくまでも、こちらはヌーソロジーからの切り込み。
 
しかし、初めての参加者も多いので、バランスを取るのがチョー難しい。
 
さて、どういう構成にするか、かなり迷うところ。いずれにしろ、素粒子と観察子相互の関係が話の重点になると思うので、ヘキサチューブルのモデルに沿って、ヌーソロジーの概念と並行させながら、SU(2)に接近していくのがベストかな(下図参照)。
 
SU(2)の背景は、ΦさんやSさんなど物理学の研究者たちもいつも言ってるように奥が深い。シュタヌー本でも、その奥深さを指定のページ数の中では語れそうになかったので、深入りはしなかった。まぁ、まだ本に書けるほどこちらの理解が深まっていないということもあるが。
 
SU(2)の奥深さの本質。それは、自他関係が虚(奥行き=自己)と実(幅=他者)としてしか現象化しない、というところにある。だから、SU(2)は鏡像としてiSU(2)を要請する。これは、自己から見たSU(2)と他者から見たSU(2)の関係のようなものだ。
 
その対関係もまた自他においては入れ替わっているということ。そうした捻じれ合いが延々と続いて、持続空間を組織化していっている。
 
時空やローレンツ変換という外部性と、スピノルが形作る内部空間は、こうした捻じれの多重性による美しい秩序で構成されており、この組織化を理解することが、まるで量子論の本質的理解と言ってもいいかのような様相を呈している。ヌーソロジーの文脈で言うなら、このことは、量子論の本質が自他論として再構成されなくてはいけないことを意味している。
 
そうした空間ビジョンが人間の知性の中に築かれたときはじめて、人間は時空や物質が自分とは無関係に外部にあるものなどではなく、自己の内的延長性に息づく自他の霊的合一の場であることを知るようなる。元素体として生きるヒトの意識次元というものはそういう領域だ。
 
その意味では、世界の存在を外部に見てきた人間の歴史観は自然史からは大きく逸脱している。いや、自然史に対する抵抗勢力と言っていいのかもしれない。人間が現在、時空上に思考している宇宙史は自然史を無理やり人間の歴史側に組み込んだ幻想だ。
 
ビッグバン理論も進化論もすべて、生命に対する反動のビジョンだということ。この是正を行うことが21世紀の思考のテーマにならなくてはいけない。

ヘキサチューブル