「face to face」という幻想

現実の空間では決して経験することができない「face to face」(下図上)——この「face to face」の錯覚が、僕らの世界に対する認識を大きく歪ませている。

face to faceの現場で実際に起こっている知覚の構図は、単純に図示すれば次のようなものだ(下図下)。これはラカンが「精神分析の基本概念」という本の中で示した図でもあるのだけど、この図は精神分析的にいうなら、他者の眼差しによって主体(想像的自我)が設立されるということを表現している。
 
勘のいい人は、これがパースペクティブ(遠近法)の空間の意味をも含んでいることがすぐに分かるんじゃなかろうか。私たちがパースペクティブと呼んでいるものは右側の三角形に当たり、その頂点がいわゆる「消失点」と呼ばれるものに当たる。「消失点」は、その意味では、他者の視点とも言える。
 
他者視点から発せられた眼差しと共に拡張していく空間。それが遠近法的空間なわけだね。その眼差しの元では、当然、私の視野は物質的点として認識されちゃう。それが、この図で「表象の主体」として示されているところの「私の目」。
 
ラカンはこうした構図から「人は見ないために目を持つ」と言う。これは、私が「私の目から世界を見る」という概念で世界を見てしまうと、主体本来の世界は見えなくなるということを意味している。遠近法での空間の構成は、主体が完全に物質化させられたところに出現する空間であり、そこでは、純粋な知覚空間は破壊されてしまうということ。
 
要は自己自身からしてみれば、世界の「見え」の方が先手であって、目は後から他者によって付与されるものでしかないということだ。その意味でも、真の主体は世界の「見え」の方であって、目ではない。
 
そして、こうした「見え」の空間の中にいかに思考を介入させていくか、というのがヌーソロジーの問題意識なんだ。「奥行き」や「虚軸(無限小)」、「持続」といったキータームはすべてその問題意識が出てきたもの。
 
地道な作業になるけど、ほんとうの自分が生きている空間を開いていこう。

face to face
知覚の構図