ドゥルーズ=ガタリは哲学における高次元思想のようなもの

ヌーソロジーに登場するケイブコンパスのモデルは、ゼロ年代に入ってドゥルーズ=ガタリの『アンチオイディプス』と出会ったときに、それこそ雷鳴の轟きのようにして一気に下りてきたものだった(笑)。それからというもの、僕の中ではOCOT情報とドゥルーズ=ガタリの思想はほとんど同じものに見えている(下図参考)。
 
ドゥルーズ=ガタリにはもう一冊『千のプラトー』という傑作がある。『アンチオイディプス』がヌーソロジーでいう次元観察子(人間の無意識の欲望機械)の内実についての本だとするなら、この『千のプラトー』の方は大系観察子(器官なき身体)の形成についての本のようにも読める。とにかく凄まじい破壊力を持った鉄槌のような本だ(下写真)。
 
この『千のプラトー』を読んで、「すべてが知覚の問題である」と語るOCOT情報に深く合点がいった。つまりは、時系列的に秩序立てられていない無時間の領域から大地(自然)の成り立ちをイメージする必要があるということ。そして、そのためには、空間の理念的質料の基礎がどのように構成されているのかを知る必要がある。でもって、その場所は素粒子構造以外にない——というのが、目下、ヌーソロジーが出している結論である。
 
地層化の反動として蠢いている霊的思考の欲動を、いかにして、この理念的質料の方向と接続させるか——その作業が、ほんと難しい。
 
時空は物質をミクロからマクロにわたる地層として構造化する。素粒子→原子→分子→DNA→細胞→植物→動物→大地→地球→太陽系→銀河系etcといった具合に。しかし、これらはあくまでも、時系列的な分配によって表現された上っ面の構造に過ぎない。人間はこの構造に沿って、滑るように知覚し、撫でるようにしか思考できない。いわゆる対象化の思考だ。
 
思考されるべきは、その分配の原理の方である。そこに精神本来の運動がある。精神は常に一義的なものであり、精神の中で時間的距離や地層的な乖離が意味を為すことはない。つまり、そこでは分子の化学反応と人間の言語活動は重なり合い、DNAを通して諸惑星が周回し、鉱物の中で思考の情念が結晶化する——そんな描写が可能となる世界なのだ。
 
無論、地層化に慣れ親しんだ意識からは、このような知覚は狂気にしか映らないだろう。しかし、この一義的な運動を全うな正気と見なせるような高次知覚のプログラムが存在している。そのプログラムのBASIC言語となっているのが、素粒子が持ったトポロジーシステムであり、それが同時に分配原理とリンクしているのだ。
 
ゼロ年代に入って、ほとんど忘れられつつあるドゥルーズ=ガタリの思想だが、素粒子がわたしたちの精神の母胎として見えてきた暁には、彼らが描かんとした内在平面の風景がよりコントラストを持った色彩の中に見えてくるのではないかと思ってる。
 
※下のケイブコンパス図、「資本主義機械のラットホイール」に訂正。

ドゥルーズ=ガタリの欲望機械
千のプラトー