微分化された空間の先にあるもの

微分とは何だろう。学校では「瞬間的な変化の割合を求めるための方法」などと習ったけど、これは延長的な見方で本質を言い当てていない。ニュートン的だ。ライプニッツは、そこに「延長以外の何物かかがある」と直観していた。そして、この何物かに延長的なものの起源があると考えていた。
 
つまり、無限小の中に延長的なものの産出原理があると睨んでいたわけだ。この直観が晩年のモナドの思想へと結びついていく。つまり、無限小の世界には、決してそれ以上分割できない物質の大元となるものが眠っていて、それが精神(霊魂)だと。
 
「物質が物質によって作られる」ということは論理的にあり得ない。それだと、作られたものと作るものの差異がないからだ。物質だけなら、どこまでも、作られたものの連鎖が続くだけで、肝心の作るものが現れてこない。
 
だから、ライプニッツは考えた。物質はその根底で必ず分割不能なものに出会う——そして、彼はそれをモナドと呼んだ。
 
そして、ライプニッツが予感した通り、現代の物理学は物質の根底に分割不能な、というより、もはや延長的な物質とはその性質が根本的に異なる存在を発見した。それが素粒子だった、というわけだ。
 
物質と素粒子の間には延長と内包という意味で絶対的な差異がある。この差異の本質は、ライプニッツ風に言うなら、産出されるものと産出するものとの差異だ。つまり、素粒子は作られたものではなく、作るものだということ。何を?—もちろん、物質を。ということになる。
 
物理学の素粒子理論はほんとに素晴らしいものだと思うが、追いついていないのは、そのイメージの方だ。物理学者のほとんどは、相も変わらず、素粒子を物質と同じイメージ、つまり、作られたもののイメージで見てしまっている。粒子であれ、ヒモであれ、同じこと。
 
だから、ビッグバンから宇宙が始まって云々・・・といった、例のあのお決まりの、見る者がどこにもいないにも関わらず、あたかも誰かが見ていたようにしてしか描けない、奇妙奇天烈な宇宙創生の歴史の物語が生まれてしまう。内包性がもぬけの殻なんだよね。
 
素粒子が物質を作り出すものだとすれば、作り出すもの側から創造を見ないと正しい宇宙の歴史は見えないのは当たり前。この部分を僕らは是正しないといけない。でないと、せっかくのこれまでの科学的成果が、ありもしない幻想の中に人間を閉じ込めてしまうことになる。これほどもったいない話はないよ。
 
外在世界における素粒子の登場は、「実は宇宙というのはすべて内在だよ」ということを告げるサインじゃないかな。あとは、素粒子に対するイメージ(描像)なんだよ。想像力とも言っていい。それが生まれてくれば、僕らを苦しめていた超越的なものは退散し、人間が正しく宇宙を見れる時代がやってくる。
 
そう思うんだけどね。

ビッグバン""