『眼がスクリーンになるとき』

前回紹介したパゾリーニの映画とか、僕らが中学生の頃は普通にロードショー公開されていた。今観ると、完全にカルトムービーに見えるのが悲しいというか、辛いね。神話自体が存在の記憶なのに、その神話の記憶さえ消滅しかかっている。神話がないと人間は生きていけないというのに、ね。
  
映画といえば、ドゥルーズが『シネマ』という映画論の本を書いているんだけど、内容はベルクソンが展開した持続の哲学を映画史を通して、より存在論的に分析したもの。この本、一見、読みやすそうに見えるんだけど、かなり難解で、いい解説本を探してたんだけど、先日、本屋で見つけた。それがコレ(下写真)。
  
眼がスクリーンになるとき』―福尾匠著。
  
ベルクソン理解にももちろん役立つし、ドゥルーズがベルクソンの哲学をどう発展させようとしたかが、よく分かる本。著者の福尾氏って初めて聞いた名前だったけど、まだ二十代の新鋭のようだ。二十代でこんな本を書けるとは……。いやはや、スゴイよ。
  
前半はテンポもよく、とても面白いんだけど、後半はかなりムダに難解になっている気がしないでもない。メイヤスーなんかの議論よりも、『差異と反復』や『』のドゥルーズをもっと盛り込んで欲しかったかなぁ、と。でも、ヌーソロジーの肉付けには、とても参考になる良書でした。
  
持続空間が全面に意識に上がってきたときの状態をドゥルーズは「時間イメージ」と呼ぶのだけど、その意識を作り出すためのドゥルーズの思考の格闘がよく分かる本になっています。(ちなみに、風の僕らの時間イメージは「運動イメージ」と呼んでいます)
  
『眼がスクリーンになるとき』でもベルクソンの「記憶の逆円錐」モデルが取り上げられているけど、この図式を実在のものとして内部空間(素粒子空間)と時空の関係として考察しているのがヌーソロジーのアプローチだと考えるといいと思う。それは事実として「在る」ということ。
  
参考までに、ベルクソンの有名な逆円錐モデルとヌーソロジーの「前-後」空間構造の図を対応させておきますね。ヌーソロジーが何をやろうとしているか、その意図が少しは伝わってくるかも(下図)。
  
蛇足ながら、「眼がスクリーンになるとき」というタイトルは、ドゥルーズが『シネマ』の中で、「目はカメラではなく、スクリーンである」と書いた内容に因んでる。ヌーソロジストならピンとくるよね。目をカメラに例える感覚は人間の内面。スクリーンならば、それは人間の外面。そういう感じで捉えておくといいと思います。

眼がスクリーンになるとき
ベルクソンの円錐モデルと垂質の対化