神秘学の脱-神秘化に向けて

フッサールの現象学が問題にする主客問題というのがある。客観と主観、どちらが先か。主観からいかにして客観が成り立つのか。主観と客観の一致は可能なのか。そういった問題をアレコレと考える。この主客問題についてのヌーソロジーの整理はおおよそ次のような感じ。下図を見ながら読んでね。
 
まずは、①幼年時代。赤ん坊から幼児の時期のこと。フロイトのいう口唇期、肛門期、男根期などがこの時期に当たるが、この時点で意識は主観も客観も持たない。感性が元止揚空間に関与している段階で、主観となる場の基礎を作っている段階と考える。
 
7歳頃から意識発達は思形の位相に入り始め、人間の内面に関与を行い始める。いつも言ってるように、この段階になると、左方向からの仮想的な視線が生まれ始め、それによって、②客観の芽生えが起こる。奥行きの幅化が意識化されてくるわけだ。(次元観察子の序数はほぼ年齢に対応していると考えていい)
 
それによって、対象とそれを見ている自分の分離感覚が生まれ、その分離が表象の像を安定化させてくる。幼児の描く絵が像をしっかり結んでくるのも、この分離の効果と考えていい。当然、このことは意識における「現在=瞬間の継起」の表象化と深く関連している。
 
客観意識の芽生えの反映として、感性が働いているところに③主観が生じてくる。現象学は、主観から客観が構成されていくものと考えるんだけど、このようにヌーソロジーでは客観と主観の成り立ちは客観がわずかに先だっていると考える。主観は客観が反映として送り出してくるものと解釈するわけだ。
 
人間の元止揚(ψ1~8)はこのプロセスにおいて、どのような役割を担っているかというと、客観を構成していくための無意識の発達の能動力として働いている。感性はこの元止揚があるから意識を秩序立てられたものとして感じ取ることができる。
 
ヌーソロジーが現象学と違って格段に面白いのは、こうした構造を担っているものを素粒子として考えるところだね。要は、総体の外面(人間の元止揚の領域に物質として凝縮化した精神)と総体の内面(再び精神化していく物質)のちょうど結節部分に人間の意識の働きが生まれているということ。
 
ヌーソロジーが徹底してヘルメス主義的(古代哲学的)アプローチ(物質世界は精神の影だと考えるということ)を取っているかが分かるんじゃないかと思う。つまり、ヌーソロジーは伝統的神秘学の脱-神秘化に取り組んでいるわけだ。
 
その意味では人間の精神はまだカタチを持たない精神の原形質のようなもの。これからだよ。総体の外面側に人間を閉じ込めているすべての抑圧から精神を解き放っていかないといけないね。そこには目の眩むような絶対的未来が開けていると思うよ。

ケイブコンパスにおける「主観・客観」図式の成り立ち