12月 21 2018
元止揚空間を駆け抜けていく、虹の狼たち
ごくごく単純化して言うと、空間には三つのタイプがある。一つは対象を中心とした空間。二つ目が自己身体を中心とした空間。三つ目がそれら二つを等化している精神の空間だ。この三つの空間を識別できる知覚を生み出すことが、差し当たってヌーソロジーにおける「顕在化の作業」と呼んでいいだろう。
ヌーソロジーが「思形」と「感性」という言葉で区別しているのも、こうした空間の両極性だと思えばいい。思形は言葉と概念を働かせ、感性は知覚を働かせ、情動をも含み持っている。裏を返して言うなら、言葉と概念が働いていなければ、対象を中心とした空間は存在していない。(下図上参照)
感性は、赤ん坊がオギャーと生まれてきて知覚を通して世界に触れていく様子を思い浮かべるといい。赤ん坊の身体は「Ψ8(Φ14の凝縮化)」で用意される。そこから精神へと戻ろうとするのだが、ボタンの掛け違いが起こり、元止揚の外へと追い出され、精神と接してはいるものの、中に入ることはできない。
精神分析ではこのボタンの掛け違いを「原去勢」と呼んでいる。一方の思形の方が「去勢」、すなわち、象徴界(言葉の世界)への参入を意味している。内側の円で表される元止揚は哲学が言う物自体を意味するが、思形の登場によって物自体は完全に見失われ、思形と感性の反復のループで覆われてしまう。
物自体の世界から疎外された、こうした意識の放浪はこれだけでは終わらず、物自体を探し求めてΨ12~11(Ψ10~9が裏返った位相/他者の感性と思形の空間と考えるといい)領域まで続行されていく(煩雑になるので説明はしない)。
さて、問題は精神の空間だ。これは元止揚への侵入を果たしたときに出現する空間のことなのだが、これが、いつも話している純粋持続の空間のことだ。これは決して、身体が持った指向的空間でもなければ、ましてや、対象を原点とした物理的空間でもない。通常の時間と空間から完全に逃れた空間だ。
この空間は主観と客観を等化しているのだから知覚するものと知覚されるものの区別はない。見ること自体が物となるような世界だと考えるといい。この空間にアクセスするためには物質空間→身体空間→精神空間というように、通常の空間認識を二度、反転させなくてはいけない。図にするとこんな感じだ(下図下参照)。
この2度目の反転で現れてくるのが、例のキットカット実験が示す空間であり、奥行きを収縮と見るなら、あの空間は物自体の原初とも言える物質粒子そのものの姿になっている。
見るものと見られるものの区別は、もうそこにはない。
この領域へのアクセスのことをヌーソロジーでは「位置の等化」と呼ぶが、位置の等化によって今まで物質世界と思っていたものが一気にメタモルフォーゼを起こす。つまり、すべてが精神の様相だと気づくわけだ。ここから開始される新たな思考と感覚の世界が顕在化を切り開いていく変換人の世界になる。
元止揚空間を駆け抜けていく、虹の狼たち。
12月 25 2018
次元観察子Ψのケイブコンパスは何を見ているのか
ヌーソロジーの思考作業には必須とも言っていい「ケイブコンパス」。一体、ヌーソロジーはこのケイブコンパス上に何を見ているのでしょうか。ごくごく簡単にですが、今日は、次元観察子Ψのケイブコンパスにおける元止揚=Ψ7~8、思形=Ψ9、感性=Ψ10のイメージを皆さんにおおまかにつかんでもらうためのお話をしておきます。
横からの視線を自意識に取り込まないと3次元空間は対象化できないという話を何度もしてきましたが、このときの意識の眼差しが人間の思形=Ψ9だと思って下さい。視点を他者の位置に持って行き、主体が奥行きを他者と同一化させているわけです。物体という概念も思形が働いて初めて確実化します。
一方の感性=Ψ10の方は奥行き(持続=こころ)に関与する空間だと考えるといいと思います。この空間は知覚を司りますが、この知覚は物体の知覚というよりも、「物ごころ」の知覚です。知覚が様々な記憶を伴って現れるのも、感性が知覚しているものが単なる物体ではなく「物ごころ」だからだと考えるといいと思います。
人間の意識は感性側からスタートします。最初に、まずは「物ごころ」を作るということです。「物ごころがつく」と、今度は、意識は思形の構成へと方向性を反転させます。それによって「物ごころ」だったものが単なる物体へと変わります。人間の外面の意識が勢力を弱め、人間の内面の意識の支配が始まるわけです。
思形は言語(概念)によって外的世界を構成しています。その意味で、3次元空間や物体は実在というよりも概念にすぎません。人間の意識は、ある理由(ヌーソロジーが大系観察子Ωと呼ぶ高次の空間構造に由来しています)から、思形が形作るこの3次元空間に拠点を持つように固く組織化されています。
思形と感性は元止揚を挟んで周回しています。精神分析的にはシニフィアンとシニフェが絶え間なく置き換えをやってる状況です。シニフィアンの過剰は感性に対して絶えず意味の刷新を要求してきます。意味の生起とは感性と元止揚のズレに生じている意識の摩擦のようなものと考えるといいかもしれません。
これらの空間構成は4次元空間が見えてくるとはっきりしてきます。
4次元空間が精神的なものだということは、100年も前にシュタイナーが言っていたことです。シュタイナーは外的空間と内的な知覚空間の関係を右手と左手の関係のように3次元の反転関係にあると考えていました。3次元の認識はその一致において起こっていて、それを可能にするのは4次元を通してじゃないと無理だと。
要は、概念と知覚を結んでいるのは4次元空間なんですね。これは「主体が世界にとって存在するためには、世界を主体の中に置かなくてはならない。このねじれこそが、まさに世界と魂の襞を構成する」というドゥルーズの言葉と同じ意味を持っています。
この外部と内部のねじれが意識化できていないことが、人間の文明をどんどん変な方向に進ませていっているように感じています。少なくともヌーソロジーから見るとそう見える。空間が全く正しく捉えられていないんですね。
ヌーソロジーではケイブコンパスの内側の円を元止揚、外側の円を調整質(思形と感性)と呼んでいますが、この図からも知覚と概念に分離する以前の物(物自体)が何かは見当がつくのではないかと思います。哲学が物自体と呼んでいるものは元止揚のことです。
哲学は「物自体なんてものはねぇ~(あっても認識不可能)」と言いますが、「そんなこたぁねぇ~」と言い返すのがヌーソロジーです(笑)。
ケイブコンパスにおける、このヌースとノスの流れが作るねじれの中に真の4次元空間の秘密が潜んでいます。そこに侵入して、今の哲学の限界を軽やかに突破して行きましょう!!
本当の母性としての「物自体」の世界が待っています。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: ケイブコンパス, ドゥルーズ