見る空間と見られる空間について丁寧に考えていくこと

今回はまたまたヌーソロジーの空間認識のごく基本的なところを。
 
今のわたしたちの意識は、「見る空間」と「見られる空間」の区別をせず、「見る空間」さえも「見られる空間」の中で思考している。この”蛮行”が世界本来の姿をその根底から見誤らせている。
 
見る空間は「奥行き」、見られる空間は「幅」。この絶対的な違いをしっかりと頭に入れて、空間を再構成しないといけない。たとえば、一つの物を見ているときの前方方向と手前方向との違いを考えてみよう。両者は、それぞれ次元観察子ψ3とψ4の基軸となるものだ(下図上)。
 
前方方向は奥行きそのものであり、そこには見えるものがあるだけで、見る者の姿はない。つまり、ここには、見るものと見られるものの分離は存在していない。これがψ3の基軸の意味するところ。
 
一方の物の手前方向の空間はどうか―わたしたちはこの物の手前方向に「自分(観測者)がいる」という感覚を生み出している。ここにψ4の基軸がある。
 
3次元の空間認識だと、この〈見る/見られる〉は180度の関係でしか表せない。実はこの状況が非常にマズイ。というのも、反対側に回れば〈見る/見られる〉の区別がまったくできない空間になってしまうからね。
 
でも複素空間認識だと、〈見る/見られる〉という空間の質の違いも含めて、ψ3とψ4の差異をスマートに形式化できてくる。それを示したのが下図下。僕らが物の手前側に自分の位置を感じているとき、実は、そのとき奥行きは横に回っている。だから、物の手前側は奥行きではなくて、幅なんだね。
 
最初は大変だと思うけど、何度もトレーニングしていると、何を言ってるのかが無意識側が反応してきて、自然に分かってくると思うよ。
 
3次元の思考形式(対象意識)から出ていくためには、こうした、見るもの(持続)と見られるもの(延長)の差異を考慮した空間認識を作っていかないといけない。それがヌーソロジーがいう「次元」の世界。
 
ハイデガーに拠れば、神の到来は「比類なき近さ」として現成する。個人的には、それは奥行き=複素空間という理解が人類に訪れる日のことだと思っている。到来する神は人間の精神の礎として眠っているのであり、それはニヒリズムの極限において、また目覚める。また、そう願いたい。
 
なぜ複素空間認識なのか―物質とは”わたしたち”の精神を基底にして内側から花開くように成長していっている自他精神の共同そのものの姿であって、それを外から単なる対象のようにして見てしまうと、その内に息づく存在の精神の営みそのすべてが見失われてしまう。この「夜の時代」を終わらせること。

3次元認識における人間の内面と外面の位置
複素空間認識における内面と外面の位置