「結び」と素粒子

時空という場所から素粒子について思考するのではなく、わたしたちを一度、素粒子という場に置いて、そこから時空について思考することが必要だ。その方法だけが内的に外が見れる知性の発生を可能にする。ハイデガーが言うように世界を正しく認識するためには、このような「転回=反転」が必要なのだ。
 
わたしたちが時空と呼んでいる場所は「すでに構築されたところにあるコミュニケーション・プラットフォーム」にすぎず、そこで自他が対等に繋がれる可能性は残念ながらゼロに等しい。ヘーゲルが言うように、自他関係はそこでは主奴関係に向けて収斂していく。それは今の世界の現状を見れば明らかだ。
 
自他間の対等な出会いとは、「転回=反転」において初めて起こる。こうした出会いを古神道でいう「結び(産霊)」に重ね合わせてイメージすると面白いかもしれない。空間化した時間(持続空間)を自他の間で結び合うこと。その結び目が何度も巡ることにより、物質としての自然が現象化しているのだ。また、そこに高次世界の本質がある。
 
「結び」はギリシア風に言うなら生成のことでもあるから、これはハイデガーのいうアレーテイアの身振りと言っていいものになる。
 
数学的にはn次元の結び目は(n+2)次元によって可能になると言われている。たとえば、一次元のヒモが結び目を作るためには、まずはヒモを輪っか状にして(2次元方向)、そして、ズラす(3次元方向)必要がある。「結び=産霊」の場合は3次元空間そのものを一本のヒモと見て結び合せる。
 
つまり、大雑把に言えば、4次元方向で輪っかを作り、5次元方向でずらして、そこに結び目=物質が現れるということになる。ハイデガーのいう「隠されたものが自分自身をあらわにする」という「アレーテイア=真理」の仕組みを知性で理解するためには、少なくとも5次元の認識が必要になるということだ。
 
人間の科学技術による生成はこの「結び」が真逆に転倒した場所で起きている。ハイデガーが「ゲシュテル」と呼んでいる機構の体制だ。真逆なのだから、そこで自他が出会う可能性は全くない。近代という意識回路自体が、自己が自分自身を他者化させていることによる言わば「ひっくり返ったアレーテイア」の仕組みなのだから、科学技術の進歩は自他関係をますますよそよそしくしていく方向に働いてしまうのだ。
 
それだけじゃない。この場所では、人間は自他もろとも、ハイデガー言うところの用象(生産のための対象)となり果て、技術のための道具にすぎなくなってくる。労働資本としての人間。生産に寄与する人間。まさに資本主義という反自然力の支配に人間は駆り立てられ、今では人間は存在の牧人という位置からは遠く離れ、人間ならざるものと化してきている。
 
この危機的状況にどれだけ意識的になれるかは、時空を素粒子側から見れるかどうかにかかっている。というのも、素粒子こそが「存在」だからだ。その意味でも、原子力や量子コンピュータなど、素粒子を用象と見なすことは極力差し控えるべきだろう。意識がその局面に入るということは、存在側が人間を切り離すことと同じ意味を持っていると考えられるからだ。
 
いや、技術は否定されるべきものではなく、回りまわってくる人間の命運でもあるので、より正確に言うなら、素粒子が用象となるところまで時代が進んできているのなら、同時に、人間は素粒子を存在として開く時期に来ているということだ。その二つの方向が揃い踏みしてこそ、存在のバランスはかろうじて保たれる。そして、それが今から訪れてくる新世界だということになるのだろう。
 
無論、ヌーソロジーは後者の作業に関わっている。
 
いずれにせよ、意識が「人間」である時代は終焉を迎えている。やがてやってくる新たなる時代が「開けて」おめでたいかどうかは、これからのわたしたちの思考態度に懸かっている。