病気が人間を作っている

日記だけは書いておこう………。

今年に入って少し張り切りすぎたのかもしれない。今朝は(と言っても午前11時頃なのだが)、左下腹部に走る激痛で目が覚めた。起きたときは背中がすでに鉄板のように固くなっていて、痛みのために真っすぐ立って歩くことができなかった。何だこりゃ?こんな痛みの感覚は初めてやんけ。インフルエンザウイルスが胃にでも侵入したとかいな?今年は確か消化器系にくるとか何とか言っとっばい?とかなんとか考えながら、会社でやり残していることがあったので、ヌースグッズを体に当て無理を押して家を出た。普通であれば、これで楽になって一件落着となるところなのだが、どうやっても痛みが治まらず七転八倒が続く。このまま激痛の中でもがき続けるのも一興だが、やっぱり時間が無駄になる。最近はとても素直になったなぁ、というか、諦めがいいのだ。病院に行くか。。。しかし、いずれにしろ、わたしは滅多なことでは病院には行かない人間。それだけ、今日の体の変調をヤバく感じたということなのだろう。

会社の人間には知られないように、こっそりと車でT医院という近くの病院に向かった。何しろ、意識までもが激痛で歪んでいるため、かなり危険な運転だったが、どうにかこうにか無事にたどり着く。そして、そのまま倒れ込むように受付ロビーへ、ヘッドスライディング。急患扱いで診察を受けることができた。

実は、わたしには4年前に一ヶ月ほど入院生活を送り、それまで20年間つき合っていた十二指腸潰瘍とオサラバした過去がある。最近の不摂生でそれが再発したのかもしれない。しかし、いきなり、こんな酷い痛みで再発するものなのだろうか。筋肉注射を打ち、胃酸を押さえる薬を点滴してもらい、軽い睡眠薬で夕方まで眠らされた。結果、だいぶん症状も落ち着いた。しかし激痛の原因はまだ分からない。土曜日に精密検査を受けてくれとのこと。ふー。全くさんざんな一日だったぜ。
人間である限り、病気の苦しみとつきあって生きていかなくてはならない。

「人間が病気にかかるのではなく、病気が人間を作っている。」

これは、OCTO(オコツト)の名言だろうと思う。
人間の身体とは宇宙を創造した「観察精神」の物質的投影である、というのがヌース理論の見解だ。
ここでは、創造を贈与する力(定質)と、創造を受容する力(性質)の間で存在論的な力の拮抗が起こっている。
贈与する者の方の力は、人間を物質世界の中へと引き入れ、その王国を管理するように命じる。一方、受容する者の力は、その命令から逃れ、あるがまま、存在するがまま、欲望の流れに沿って生きていきなさいと後押しする。現実原則と快感原則。超自我の命令とエスの反発。こうした対立する二つの意識の流れの中に自我は放り込まれて、常に苦しみ続ける。天界もまた調和を失っているのだ。神も病気なのである。そして、この神の病の影が人間という存在となって出現している。そして、人間においては、その病は”身体の病気”という形で現れる。とどのつまりが「人間が病気にかかるのではなく、病気が人間を作っている。」となるわけだ。
世界中から、全ての病気をなくすこと。それがヌース理論の見果てぬ夢でもあるのだが・・・

偉そうなこと言ってないで、その前に、土曜日の精密検査に行ってこんかい。ばか息子が。。。。(;;)あい。