視野空間

 いつもが不真面目というわけではないが、たまには真面目なヌース話を書くべぇーか。現在、アカデメイアコンテンツのNC assembleというページの内容を制作中である。これは、最新の次元観察子ψ1〜ψ8の描像を何とか分かりやすくヌーシストたちに伝えようと、イラストをふんだんに盛り込んだ解説ツアーになる予定だ。

 まぁ、いろいろとアイデアを練ってはいるのだが、やはりヌースの空間認識をイメージ豊かに他者に伝えるのは難しい。それもこれも視野空間というものが実に得体の知れない対象だからだ。

 視野空間(知覚正面)とは全く持って奇妙な空間である。科学的に見れば、視野空間は網膜に映った外界の風景像と見なせよう。しかし、そんな説明はヌース理論の見地からすれば全くの妄想、子供だましにほかならない。いゃ、もっと言っていい。トンデモである。網膜や眼球といった身体的な部分対象は、自らを他者化させて見る眼差しによって初めて存在し得るものだ。ちょうど主体が主体自身を名指すことができないように、主体の目は主体の目を直接見ることなどできない。わたしに目があるという言明は、他者の目を通じてしか行えない。つまり、主体は他者となって、自分にも目があると思い込んでいるだけなのだ。そこまで言っていい?言っていい。その思い込みの延長線上に網膜や水晶体といった観念が作り出される。だいたい科学が行っている説明はこうした他者の眼差しに晒された小賢しい小道具によって事態を解説しているだけである。だから、科学的思考では主体に触れることはできない。主体に触れるということができないということは、われわれの生の現実に触れていないということである。

 さて、もし、主体が自分に目があるなんてバカな思い込みをしなければ、つまり、オレには目なんてないよーん、オレには顔なんてないもーん、オレには首なんてないのよーん、と思い切って英断すれば、主体とは視野空間そのものであったということが、すぐに判明するのだ。いや、もとい、視野空間という言葉も目を前提としているので、もっと別のいい方をしなくてはならない。あー、つまり、現象そのものが主体なのだ。まぁ、こんなことは20世紀の現象学が言い出したことで、いまさら新しくも何ともないのだが。。。

 ヌース理論が取り組んでいる問題の一つは、現象そのものの位置で凍り付いてしまっている現象学を、何とか解凍させて光の種子を精製させようということ。現象学は、現象(自己性)と現象(他者性)の鏡合わせの拘泥の中から一歩も抜け出せていないばかりか、下手すると、現象として立ち現れた主体の不気味さ、無底さの中へと飲み込まれようとしている。ここに思い切って幾何学のクラルテを流し込み、水の鏡地獄から、もつれた魂の運動をサルベージしようというものである。

 視野空間とは、生と死を隔てる膜である。この膜を破って膜の向こうに入れば、そこには視野空間を点のように扱う内面世界が広がっている。宇宙が自らの屈折レンズを使って、極大なものを極小の中に移し込むのだ。しかし、移し込まれた極小はそのことに気づかない。こうして極大を孕みつつ極小として生きる点が人間と呼ばれる存在なのだ。

 君はポツンと宇宙の片隅に生きていると思ってる。でも、そうじゃない。——ほら、空を見上げてごらん。その空が本当の君なんだ。空が君であっちゃいけないという理由はどこにもない。だから、大声で叫ぼう。オレは空だ、って。。。。ヌースはみんなが空になれると本当に信じてる。