骨が折れる4次元の解説

 ヌース理論はわたし自身の中では日々パワーアップしていってる。だけど、他者に伝えられなくては単なる自己満足の域を出ない。現在、テキスト用に整理していってるのはNC assemble line(エヌシー・アセンブル・ライン)というやつで、これは四次元空間を具体的に理解していくための手順プロセスのようなものである。NCというのは全体が完成すると4次元球面というカタチになるのだが、4次元球面のカタチをイメージできるようにするためにはどのような思考方法を用いればよいのか、それらをいろいろと試行錯誤しながら現在まとめているところだ。

 4次元空間さえおぼつかないのに、4次元球面なんてどうやってイメージするのか、と思っている人がほとんどだと思う。しかし、4次元空間を描像することは難しいことではない。みんな4次元を難しく考えすぎているだけなのだ。4次元を理解するためには観察という要素を加味すればいい。ヌース理論では「次元が上がる」というのは「観察する」とほぼ同じ意味なのだ。

 「光の箱船」にも書いたように、たとえば、1次元は2次元方向から観察される。続いて、2次元は3次元方向から観察される。ならば、それと同じように、3次元は4次元方向から観察されているのではないか。。。ただ、それだけのこと。だから、対象の位置の概念が形作られる空間が三次元空間だとするならば、それを観測している者がいる場所は3次元ではなく4次元だということになる。わたしは今、博多にいるけれど、この博多にいるということを知っている私自身は四次元にいる、単にそういうことだ。じゃぁ、この四次元ってもっと具体的に言うとどういう世界なのか——ここでふくよかなイメージを無数に提出すればするほど、四次元知覚の機能はアップしてくる。このイメージを送り出すのがヌースの言い出しっぺであるわたしの仕事だ。

 たとえば、あらゆる位置から一つのリンゴを見てる意識があると仮定してみよう。そのような意識で見られているリンゴは普通、客観的なもの、と呼ばれる。じゃあその客観は三次元世界の産物かというと、そうではない。主観の観察でさえ4次元にあるわけだから、客観がもっと上の次元だというのは当然、予想がつく。客観というのは三次元立体としての一つのリンゴを同時に様々な方向(他者)から見れるものなのだ。そうした客観化を作り出す意識を客観意識と呼んでもいいし集合意識と呼んでもいい。とにかく、そういった意識の存在を想像してみよう。そうすると、すぐに分かるのは、こうした意識が時間を超えているということだ。時間を超えるということを空間的に表現すると、瞬間的に別の場所に移動ができる、ということでもある。つまり、「時間よ止まれ」と言って、世界の時計をいったん止めて、その止まった時間の中で動く事ができて初めて他者の立場に立ってリンゴを見ることができる。

 しかし、4次元連続体としての時空は、時空一体であるので時間が止まれば空間も凍りつく。だから、ここで動ける空間というのは四次元時空に含まれる三次元成分としての空間領域ではない。それは三次元には含まれない空間だから、ここに四次元空間が初めて顔を出すという筋書きになる。この第4の空間次元の描像を初めて明快な映像で示してくれたのが映画「マトリックス」だった。バレットタイムの中で時間は止まるが撮影しているカメラは動いている(ウォシャウスキー兄弟が実際には無数のカメラを並べて撮影していたことを思い出そう)。このカメラの動きが展開している空間とは現実的には何の空間だったのか——それが空間内に配位された他者の視点だということだ。他者の視点を全部共有するというところに、客観意識、または集合意識の最も分かりやすい表現がある。こうした意識から見た風景はあらゆる視点を持っているので当然、不変だ。それこそ、その不変性が数学的に四次元対称性と呼ばれている概念に対応する。つまり、生きている人間のいる位置は想起、持続、記憶を含んでいるという意味で三次元空間上の位置ではなく、四次元空間上に組み込まれた位置なわけである。世界を見る視点をいろいろと変えるというのは、その意味で四次元空間上の回転になる。それが時間に現れればSO(1.3)で、空間に現れればSO(4)である——。物理学も、そろそろ観察や他者の視点といった概念をより積極的に考慮してはどうか。そうすれば物質と意識を結びつける理論へと駒を進めることができるはずだ。