ヌース会議室の方で、Uさんという方から、ヌース理論に登場する「位置の等化」という用語についての質問があった。

http://noos.ne.jp/forum3/c-board.cgi?cmd=one;no=3507;id=noos

「位置の等化」とは、端的にいうと、モノの裏側に真の主体の位置を見い出すことである。自他がともに「モノの裏側」に自身の真の主体性を発見することによって、世界はまさに人間不在の知覚風景そのものの場所にになる。ヌース理論が語る「ヒト」とは、そうした場所における「モノ」のことである。そこで、Uさんは尋ねてきた。モノの裏とは顔のことですか?——と。………するどい。

今日も顔がやってくる。
まるで、彗星のようにして、
すべての歴史をたなびかせながら。
顔と顔が対面するとき、
出会うのは、過去と未来。
そこで二人は永遠を欲望する。
顔と顔が対面するとき、
現れるのは、光と闇。
そこで二人は善悪を欲望する。
だから顔はすべてを知っている。
恐怖の怖さも、
歓喜の喜びも、
悲哀の悲しさも、
憎悪の憎しみも、
苦痛の痛さも、
快楽の楽しさも、
そう、すべては顔なのだから。
顔とは存在の両端に位置する二つの性。
ならば、顔とは神の性器である。
汝、殺すなかれ——。
すべての顔は歓待されなければならない。
すべての深い精神は仮面を必要とする。
いな、それどころか、すべての深い精神のまわりには絶えず仮面が生長する。
彼の発する一語一語、彼の足取りの一歩一歩、彼の生のしるしの一つ一つが、絶えず、間違った解釈に、すなわち浅薄な解釈にさらされるためなのである。

──ニーチェ『善悪の彼岸