新羅の金冠

img_948588_18129630_0そもそも九州国立博物館に足を運んだのは、慶州の天馬塚古墳から出土した新羅の金冠を見るためだった。わたしの出張中に、うちの奥さんが見に行ってすごかったというので、それならわしも、ということで出かけたのだ。東洋の歴史にはほとんど興味の無いわたしだが、新羅という国だけにはなぜか昔から惹かれる。かつて新羅には「花郎」と呼ばれる青年貴族の部族集団があって、弥勒信仰を持っていたと言われている。仏教における弥勒信仰はミトラ教から来たものだいうのが定説だが、実際、6世紀までの新羅の文化は、漢字も使わず、中国の暦も用いず、茶碗にも把っ手がついていたりと、ローマの影響を色濃く受けている。有名なミトラ教の祭祀である「殺牛祭祀」も行われていたらしい。ミトラ教の話はレクチャーなどでも紹介したが、ローマ帝国がキリスト教化する前の国教で、全盛期は世界宗教と言っていいほどの勢力を誇っていた。映画「グラディエーター」で前帝マルクス・アウレリウスが戦場で祀っていた祭壇もミトラ教のものである。ミトラ教はヘレニズム時代に、シリアやバクトリアなど当時のシルクロード沿いの国々を通って、チベット経由で新羅に達したと考えられる。

まぁ、そんなかんだで、新羅に古代東方世界の叡智がダイレクトに伝わっていても全く不思議ではないのだが、予想通り新羅はなかなかイカしていた。新羅の金冠を見て何に驚いたかと言うと、その形状デザインだ。金冠は樹木の形態をとった丈の長いデザインになっているだが、これが何とルーリア・カバラの「生命の樹」にそっくりではないか。ルーリアが「生命の樹」を表したのは16世紀なので、この金冠にあしらわれた生命樹はそれよりも1000年ほど古いものということになる。しかし、何度見てもそっくりなのだ。ルーリアはここから「生命の樹」のヒントを得たのではないかと思えるほどである。左右方向に3本の柱が立ち、上下方向は4段階に分かれている。そして、それら12箇所の交差場所には翡翠で作られた勾玉がつり下げられ、生命樹のトップには別個に一つの勾玉がはめ込まれている。合計13個だ。勾玉とはセフィラー(セフィロトの単数系)のことだったのか、と一人短絡的にニンマリとしながら、新羅の高度な文化と美意識に思いを馳せた。

 私事で何だが、半田家のルーツは出雲だったという話がある。出雲の埴輪作りの血を受け継いでいるというのだ。その後丹波に移り住み、関ヶ原の戦いの後、九州各藩に対する監視的役割として有馬豊氏が徳川から九州に派遣されたときに、ひょこひょことその殿様についてきたというのだ(有馬藩は現在の福岡県久留米市当たりに当たる)。そうした言い伝えもあって、わたし自身は半田家の大本のルーツは新羅から出雲へと渡って来た帰化人ではなかったのかと勝手に想像している。そして、おそらく、あの超エリート集団「花郎」の一員ではなかったのかと。中国や韓国の歴史に何一つ興味のないわたしが、新羅にだけこうも魅了されるのもDNAに深く刻み込まれたその記憶のせいなのだろう。しかし、そうは言っても気になることが一つある。「花郎」はミトラ(幼少の神)を意識してか美男子集団であったとも言われているからだ。うーむ、ここはなかなか直視し難い要素ではある………。そっか!!前世は「花郎」だった、ということにしておこう。ひひ。