亡国のイージス

gnbd7259「亡国のイージス」という日本映画をDVDで観る。うぅぅぅ………絶句。この映画の内容についてはもう何も言う気がおこらない。聞くところによれば、原作者の福井晴敏氏には若い世代に熱狂的なファンがいるという。小林よしのり氏の「戦争論」にしてもそうだが、あの9.11の事件以降、日本にも実にキナ臭い言論が増えてきた。イラクへの自衛隊派遣。平然と進む憲法改正論議。国家意識の希薄を自分ごとのように嘆く国家マニアの連中は、今の軟派な国状がよほど気に入らないらしい。

 わたしは日本語しか話せないコテコテの日本人だが、日本国民としての自覚はほとんどと言っていいほどない。もちろんご先祖様や日本人が築いてきた文化には心から敬意を払うが、日本という国家にはケツを向ける。日本人と日本という近代国家は別物だ。平和ボケ日本。国歌斉唱、国旗掲揚もままならない学校教育。結構なことじゃないか。こうした日向ぼっこのような平和を獲得するために皆一生懸命働いてきたんだろうから。人と人が殺し合う世界よりはいくらかはマシだろう。この際だから、この平和ボケの余勢をかって、国歌も国旗も全面リニューアルして太陽系歌、太陽系旗を日本人の手で作ったらどうだろうか。そして、あらゆる行事でその歌を歌い、その旗を振るのだ(できれは「てのひらに太陽を」のようなメロと歌詞がいい)。これは間違いなく世界規模のニュースになる。ボケボケ日本人。ついに末期症状か!!ってね。そうすれば、韓国も中国も少しは気の毒に思ってくれるかもしれない。

 なぜ、国家にはケツを向けるのか。理由は簡単だ。国家は個体化を疎外するものだからだ。どのような大義、名目があろうと国家権力による統治は人間の抑圧を生む。国家主体とは個体主体を生み出すための原器ではあっても、決してそれらを再統合させるための役割を持つものではない。国家主体とは、個体主体に成りきれない、つまり、個体化への中途段階にある意識を保護する役目がその本来の仕事ではないのか。個体同士における本当の絆は市民的生活の中にあるのであって、政治的生活の中になどない。また、国家はその市民的生活を守るためのものではあっても、決して統括すべきものではない。

 バクーニンやマルクスといったかつてのアナーキストたちは、国家を「おめでたい痴呆状態の画一化」として定義していた。国家は自由と能動と独立心を疎外する。国家民主主義もまたしかり。完成された真の民主制においては国家などは必要ない。だから、政治家や政党が口走る「日本国の民主主義」などといった言葉を決して信じてはいけない。民主主義とは個体化の宣言なのだ。議会制度もまったく同じである。それこそ「痴呆状態の画一化」のいい見本となっているじゃないか。時はすでに21世紀。そろそろ国家という幻想から離れたいものだ。となると、目指すべきは「霊性の道における和合」ということになるのだろうが、残念なことにスピリチュアルな世界にも国粋主義者を宣言してはばからない連中がたくさんいる。霊と国家が結びつくとロクなことはない。かつての日本国然り。ドイツ国しかり。今のアメリカ国だってある意味そうだ。旧い父の呪いはどの国家にも及んでいる。それは国家自体が旧い父の亡霊だからだ。いい加減で旧い父には勇退してもらいたい。——お父さん、さようなら。

 この映画の冒頭で、「イージス」とはギリシア神話に出てくる無敵の盾のことであるというナレーションが入る。この盾とは、元々はゼウスがアテナに与えたものである。アテナとは芸術と建築と聖戦の女神でもあり、その語彙そのものは「自ら生まれ出し者」の意だ。要は「イージス」とは、個体化からやがては存在自身の母胎へと回帰していく魂に与えられた知の盾なのである。決して国家を守るための盾などではない。むしろ国家を消滅させていくための戦いにおいて用いられる盾だ。真の意味での「亡国のイージス」とは何か。僕らはもっと思慮深く考えるべきだ。