差異と反復………3

 ドゥルーズ曰く、永遠回帰とは差異の極限的な先端において現れる。差異の極限的な先端とは、神が現在進行形として息づいている真の現在の場所と言い換えてよいかもしれない。そこでは〈全てが等しい〉という宣言のもとにもとに、すべての存在者の多様性が回収されている場所である。また逆に言えば、〈全てが等しい〉とする存在の暴力のもとから諸々の存在者たちが逃走しようとしている場所のことでもある。〈全てが等しい〉こととは神学的に言えば一者の振る舞いであり、これは多としての存在者が置かれた場所から望めば巨大な同一化の力として振る舞っている。ここには事物そのものが持つ本性上の差異は存在してはいない。
 例えば、物質という同一性を考えてみるといい。すべてを物質で語り尽くそうとする科学が持った空虚なる全体性への欲望。科学に現れる種々の物理法則の中には差異の極限が持つ〈ただ一つの同じ声〉が押し並べて響いている。
 例えば、今流行のデジタル空間という同一性を考えてみるといい。すべてを0か1のビット信号で覆い尽くそうとするコンピュータの欲望。ここには物質という同一性の中で戯れる差異なき差異を、非-物質というさらなる極限の同一性の中に葬り去ろうとする最終的な欲望が働いている。

 すべての女を石女(うまずめ)にしてしまうメドゥーサの呪術。存在者の不妊化。差異のこうした去勢状況の中からは新しい子供たちは決して生まれてはこない。差異が存在しなければ、存在自身が持つ存在への反復力が及ぶべくもないからだ。

 存在論的差異が持つ反復。ドゥルーズにおいてそれは意識のことに他ならない。意識とは存在と存在者の差異に生息している反復である。その意味で、僕らの目前に世界が現れ、それを現象として意識しているということは、僕らが意識する一瞬、一瞬の中に永遠回帰としての反復が絶えず繰り返されているということなのだ。今、今、今、という反復の中にも、僕たちの無意識は存在の一性との間で交信を繰り返している。その意味で言えば、現存在としての人間とは、その反復の中に着床した一つの宇宙卵〈space-egg〉と言える。
 父を殺害してはみたものの、今度は父の亡霊に取り憑かれ、母までをも手にかける。そして、その屍体から卵巣までをも引きずり出して、母の胎内で生産されてくる卵子のすべてを踏み潰そうとする変態性欲。その性欲に僕らの現代はどっぷりとつかっている。その意味でも、今という時代ほど永遠回帰が問題とされなければいけない時代はない。存在が諸々の存在者をサウロン的な巨大な同一性の大洋の中に飲み込み、この大洋から差異のさざ波が消え去ってしまう前に、生命あるものはこの存在の暴力に対して徹底して逃走の道を、いや、反復不可能なる反復への往路を仕掛ける必要があるのだ。そのためには事物相互の本性の差異を見極めることが絶対不可欠である。。つづく。