カバラは果たして信用できるのか?——その2

——前回よりのつづき

 ルーリアの思考は至ってグノーシス的である。コルドヴェロを含めそれまでのカバリストたちが創造を常に神の前進的なプロセスだと考えていたのに対し、ルーリアは創造の御業を神の撤退と考えた。つまり、グノーシス主義者たちが言うように、この自然世界が成立してくる基盤には神の臨在というよりもむしろ神の不在があると思考したのだ。ルーリアがここで言う「収縮」とは神自身の自己隠蔽のことであり、神が聖性の充満した空間からその局所的な一点へと身を引き、その姿を隠すことによって、初めてそこで神自身とは差異を持つ創造の場所性(テヒル=根本的空間と呼ばれる)が出現してくると考えたわけだ。この場所性の提供は生命の樹においてはディーンというセフィラーが請け負っているとされる。

 テヒルが用意されると、そこにヨッドとレシムという働きが介入してくる。ヨッドとはあの聖なる神名Y-H-W-H(ヤハウエの四子音文字)の第一字のことだ。一方のレシムとは神が収縮によって撤退を行ったときに残されたわずかばかりの残光とされるもののことである。ヨッドが創造における能動的原理だとすれば、レシムは受動的な原理と言える。セフィロト的にはヨッドはコクマーの属性であり、レシムはビナーの属性と考えていいだろう。ヨッドはこのテヒル(根本空間)に神の言葉としての光を入射させ、文字通り言葉を通じて世界を創造していくのである。

 しかし、このテヒルには神の収縮の際に残されたレシムの光もまた存在している。新しく入射してきた光と置き去りにされた光(ヌーソロジー的にはこの両者こそが言葉と知覚の本性でもあるのだが)——この二つの光の登場によってルーリアの理論はここから一気に劇的な展開を見せてくる。この互いに異なる光の種族の間で闘争が始まるのである。これは旧約的に言えば天上界の戦いと呼んでもいいものだが、当然のことながらこの闘争は存在の父であるコクマーと存在の母であるビナーとが放つ二条の強力な光線の拮抗関係に拠るものと考えられるのだが、この理論的修正は驚くべきことだ。なぜなら、コクマーとビナーはルーリア以前のカバラ解釈においてはベリアー(創造界)に君臨する「完全なる人間」としてのアダムカドモンの両肩・両腕に相当する器官でもあり、ルーリア以前には完全無欠な智慧と知性と考えられていたものだからだ。ルーリアはこの二つのセフィラーが放つ光の間に光と光の不断の闘争という性格を持たせたのである。

 この上位のセフィラーから流出する二つの光の激突が放つ光量のあまりの目映さに下位のケセドからイエソドに至る六つのセフィラーは粉々に粉砕されてしまう。これが「シェビラート・ハ・ケリーム(容器の破壊)」と呼ばれるカバラ形而上学における最大の事件である。この破壊された部分は生命の樹においてはちょうどイェッツェラー(形成界)そのものに当たるが、かろうじて第十のセフィラーであるマルクトだけは残される。ただルーリアの理論ではなぜマルクトだけが残されたのかその理由が今一つ定かではない。私見を少しだけ挟むとすれば、これはおそらくビナーとコクマーを調停する力としての第一のセフィラーであるケテル(王冠/創造の始源的意思)の力がマルクト(王国)に反映されているからだろうと考えられる。マルクトとはカバラによれば物質世界そのものの領域のことであるが、この最下位のセフィラーであるマルクトが物質世界とされるのは収縮によって撤退したケテルにおける神の創造的意思そのものがテヒル(根元的空間)においては物質として顕現してくるからに他ならない。

 このケテル-マルクト-コネクションによって、マルクトは破壊されたイェッツェラーの代理機能を果たそうとイエソドからティファレトに至るまでの四つのセフィロトの偽像を作り出してくることになるのだが、それがアッシャー(活動界)と称されるわたしたち人間の意識が活動する世界のことである。

——つづく