即自的時間と奥行き

存在の本質は空間(3次元)でなく時間だと考えなくてはいけません。存在とは「あること」をいいますが、「あること」とはあり続けて初めて「あること」になるのであり、この「あり続けること」は単なる3次元の空間では描写することができません。空間は瞬間でしかないのです。

しかし、僕らが普段、意識化している時間はあまりにも手荒く扱われています。というのも、過去はすでに消え去った古い現在として今はもう存在していないものと考えられているからです。つまり、僕らの普段の意識は「存在すること」を現在中心に見ているのです。

「現在」とは瞬間の異名でもありますから、これは「存在すること」の感覚が空間側へと偏っていることの証でもあります。ですから、僕らが存在の本質に触れるためには、時間に向き合うときの感覚をその根底から変える必要があります。

つまり、「かつて過去があった」と考えるのではなく、「今、過去がある」「今、過去があり続けている」と感じ取らなくてはならないのです。要は、存在とは過去だということです。この過去の深みに向かって自分の根を下ろすこと。それが生命として生きる自分を感じ取るための絶対条件です。

さて、この「あり続けている」自分の中の過去ですが、これは物理学が時間と呼んでいるものの中には存在していないと言っていいと思います。なぜなら、物理的時間は直線的なものであり、その瞬間、瞬間に穿たれる現在としての点時刻はすべて一様に均質的で、どこを切っても金太郎飴状態だからです。

わたしたちの「今=現在」は全く違ったものです。「今=現在」はあり続けている過去をつねに包括しており、そのつど変化、変容していきます。このように時間をイメージしていくと生きているのは現在ではなく、過去だという感覚がわき起こってきます。

こうした過去のことを哲学は即自的過去と呼びますが、わたしたちは過去が存在として生きているこうした即自的過去の場所をありありと描像できるようにならなくてはなりません。わたしたちにおなじみの4次元時空というのは、この即自的過去の上を覆っている薄い薄い皮膜にすぎないのです。

そして、この即自的過去が息づく場所が実は「奥行き」なのです。「奥行き」はわたしたちの即自的過去の現れです。日頃慣れ親しんでいる時空という場所に対して、この即自的過去としての「奥行き」をそのまま幅の無限収縮と見なしましょう。そこに天使として生きる素粒子たちの世界が展開しています。

facebookimg07