自然を霊化させていくために

幅で構成される空間は外延性であり、奥行きで構成される空間は内包性である――この原則に則って空間を再構成していかなくてはならない。たったそれだけでも、宇宙の見取り図は真実にグッと接近してくるだろう。
 
言うまでもなく、外延性は物質の場であり、内包性は霊の場である。この差異が見えず、外延と内包が混淆している現在の我々の意識状態が魂の場と言っていい。言い換えれば、人間の魂とは迷いの場でもあるということだ。
 
幅の空間と奥行きの空間の分離感覚が意識に明確化されてくると、外延性に出現している物質が内包空間の高度な組織化の末に立ち現れているということが朧げに感覚化されてくる。その感覚が日増しに強くなり、やがて一つの確信へと変わったなら、君はそのとき「世界を反転させた」と言えるだろう。
 
ヌース(能動知性)のための思考の大地が開いたのだ。
 
生きるモナドへと変身した君は、やがて外延空間が内包空間から生み出されていることに気付き出す。外は「わたし」と無関係に展開しているのではなく、「わたし」の内側にあるものの更なる内への前進によって繰り広げられているのだ。
 
この仔細な仕組みがヌースによって思考されたとき、外延性が何故に「公共」と呼ばれるものかがはっきりと分かってくる。つまり、外延性とは本当は共同内包性と呼ばれるべきものであり、そこで自他はわたしたちが「わたしたち」であることの根拠を見出すのだ。
 
上古代人たちは、こうした共同内包性の世界に生きていたと考えてよい。この共同内包性とは、例えばカタカムナ人たちが言う「トキトコロノマリ」のことである。
 
こうした場所概念を持つことなく、エコロジーや自然との共生を叫んでも、事態は何もかわらないだろう。なぜなら、人間の精神自体がまだ、この精神と自然の連続性を自らの内に意識化できていないからだ。もちろん、行動や行為が大事なことは言うまでもないが、その意思を強靭なものにするためにも、自らの中で自然をまず霊化させることが優先されなければならない。
 
「霊」という言葉が嫌いであれば、ドゥルーズ風にこういう言い方もできる。
 
このような概念の創成によって、空間―時間は純粋な所与であることをやめ、主体における微分的関係の集合あるいは繋がりとなり、そして、対象[客体]そのものは、経験的な所与であることをやめ、意識的知覚におけるこれらの関係の産物となる。
 
自然と共に生きるということは、外延を共同内包性として感じ取った「わたしたち」として生きるということであり、それは霊となって生きるということにほかならない。

トキトコロノマリ