受肉したロゴスと切断者としてのロゴス

ヌーソロジーは「見られている空間」と「見ている空間」の差異を指摘し、前者から後者への反転を執拗に促しているわけだが、これはキリスト教的に言うなら「受肉したロゴス」から「切断者としてのロゴス」への質的変容を迫っていると言い換えてもよい。
 
人間の肉体は創造空間においては創造の完成と始源の結節のようなものとしてある。イエス・キリストが「受肉したロゴス」と呼ばれるのも、本来、人間の肉体自体が創造的知性のロゴスのかたまりのようなものだからだと考えるといい。物質化は「見られる」という受動性先行の中において行われていく。
 
この受肉したロゴスが受肉させるロゴスへと変わる、つまり、完成が始源へと相転移を起こすことをクリスチャンたちは救済と呼んできた。
 
―父よ、世が造られる前に、わたしがみそばで持っていた栄光で、今御前にわたしを輝かせて下さい―
< ヨハネの福音書第17章 >
 
オメガを新しいアルファへと変えること。
  
ここに出現するのが切断者としてのロゴスと考えるといい。ドゥルーズなんかが仕切りに言っている「差異」という言葉もこうしたロゴスの突然変異体のことを意味している。「差異とは所与がそれによって与えられる当のもの」、つまり、与えられているものを与えているものを見出せ、ということなのだ。
 
人間が言葉を持って文明と複雑な社会システムを作り出しているのは、この受肉したロゴスの完成体である人間が再び切断者としてのロゴスへと成長していくためのプロセスとして生きているからである。この一点において、人間は他の動物たちとは目指す方向が全く違うのだ。つまり、人間において宇宙の方向が二つに切り裂かれているということ。
 
だから、人間は他の動物たちのように自然と調和して生きることは決してできない。自然と調和したいのなら人間自身が差異化するしか道はないだろう。宗教(religion)の語源はre(再び) ligion(結ぶ)だが、人間に宗教があるのもロゴスが常に無限を乗り越えていく無限を内包しているからだ。
 
進化論のような人間観ではなく、この「結節」としての人間観を取り戻すこと。

incarnation