「トゲトゲとツルツル」を受けて―久々のシオリちゃん

―宝石をつるつるに磨く。ろくろを回すように粘土を成形する。スイカ割りをするために狙いを定める。ピッチャーが投げるボールをバットで打つ。私達が「丸い」ものを見るときは・・・削られたものか、編まれたものか、整えられたものか、微分かのごとく限りなくツルツルに近づける。。
 
とすると、「地球を歩いている」という場合でも、円周を回っているわけでもなく、アスファルトを横滑りしているのではなく、どちらかというと、剣山の針から針へと移動しているのだけど普段意識する事がない・・・と言った方が近いのかもしれない。。ギュッパーのパーの部分の針の先。
  
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3次元認識のツルツル性について語ってるね。僕らが持った意識のベクトルは針の方向(垂直性)には決して向かおうとはせず、限りなく水平の世界の中を視線が彷徨い続けてる。だから、地球の本性に触れることができない。
 
彼女が「ギュッパー」と言っているのは外部と内部の交通が生まれている方向なんだけど、僕らに見えているギュッパーはせいぜい時間と空間の関係ぐらいなもので、でも、それさえもニセのギュッパーにすぎないんだ。その下では潜む沈み込みと押し上げの地球の呼吸が営まれている。これが生命なんだけど、この息遣いに気づいている人はほんと少ない。
 
時空はマクロ世界、というのが僕らの常識。だけど、ほんとうの地球から見ればそれは微分化された極小の世界なんだよね。
 
例えて言うなら、円の接線の中の世界なんだ(下図参照)。円の中のほんとうの地球を知っているのは接点としての肉体だけ。肉体だけが円の内部に侵入していける垂直性を持っている。だから、人間は肉体として存在している。肉体はツルツルとギュッパーの境界に位置しているってこと。
 
ツルツルとトゲトゲ。水平性と垂直性。時空と複素空間。幅と奥行き。延長と持続。関係はすべて同じ。ディアスポラの民―撒き散らかされた者たちとは私たち人間すべてのことだとしたら。
 
【補足】ここで言ってる「水平性」とは時空のことだよ。「垂直性」というのは時空に直交する方向性のこと。意識感覚でいうなら「ある」は水平性。「いる」が垂直性。「なる」が垂直性の目覚め。って感じだね。
 
もちろん、「ある」は「いる」によって支えられている。それが時間と持続の関係。

水平性と垂直背位