ハイデガーはいい刺激になる

出発点とするべきは、収縮そのものであり、弛緩がその反転であるような持続である(ドゥルーズ『差異について』p.121)―幅と奥行きを複素平面と見なす思考は、ドゥルーズのこの一節に触発されたところから始まった。
 
持続(精神)は収縮の中にしか現れない。そして、それは新しい現在に触れつつも、絶えず己自身を過去の中に反復する。直線的時間にその都度触れながら、現在の知覚を常に記憶のイマージュの中へと溶かしこんでいくのだ。ベルクソンはそれを円錐モデルで示したが、収縮の思考は、この反復運動を素粒子の回転として見えさせてくる。
 
今、今、今が永遠の中に運ばれていく。。。
 
それは、実感を持った確かな感覚だった。そのときから、僕は収縮において思考すると決めた。時間上をパチンコ玉のように転がっていく生きる粒子になるのではなく、逆に、時間を毛糸玉のようにして己自身の内に巻き込んで生きる粒子となること。そうやって、時間を己の凝結点へと戻すこと。そうすれば、空間も自ずと反転する。そこに全てを賭けた。
 
直線世界の中に散乱する精神の死体。それが物質だと考えてみよう。この死んだ精神を生きる精神へと引き戻そうと、どんな人でもこの球形の糸巻き車を無意識のうちに回し続けている。生きるということは、本来、そのような営為でないといけない。精神の死に同意することなく、それに抗い続けること。
 
存在とは「エス・ギプト/es gibt―it gives(それが-贈り届ける)」であるとハイデガーは言っている。名詞形のdas gift(いわゆるギフト=贈り物)はドイツ語では同時に「毒」の意味も持っている。存在はわたしたちに自然を喜びの糧として与えていると同時に、恐ろしい毒としても与えている。それが、このエス・ギプトという表現には含意されている。
 
ご存知のように、毒は神経をマヒさせる。もし君の精神が弛緩しっぱなしだとしたら、君はこの毒に完全にやられていると思った方がいい。贈られてきたものだけに目を向けるのではなく、人間社会の贈り物のように、贈り物を受け取ったものは、贈り主に返礼することを忘れてはいけない。それが精神として生きる者の礼儀というものだろう。
 
ちなみに、OCOT神学(笑)では、ハイデガーのいう「エス(それ)」とは「ヒトの精神」、「gibt(贈る)」とは「ヒトの思形」、贈られる存在者とは「ヒトの付帯質」、「存在に住まう言語」とは「ヒトの定質」に対応している。そして、かくあるべき現存在としての人間とは「ヒトの感性」と言っていいだろう。
 
このOCOT神学をヌーソロジーが使用する大系観察子Ωのケイブコンパスで表現すると、おおよそ次のようになっている(下写真下)。僕がいつも「他者構造」と呼んでいるものは、ここにある「存在者」を贈り届ける力としてのヒトの思形を意味している。物質があってこそ精神があるという、いわゆる体主霊従の世界観は、この力が先導させているものだと思うといい。ヒトの精神を逆転させて働かせる位相が生じているのだ。頽落して、存在者の中に生を見る転倒した人間の姿がここにはある。
 
ハイデガーは、哲学においてこの存在のループから抜け出すことを試みた最初の人物だ。が、しかし、果たしてこの転倒のループから脱せたかどうかは疑わしい。

マルティン・ハイデガー
大系観察子