奥行きの先には無限の捻りの運動がある

物質は時空に包まれているように見えるが、わたしたち人間の観察を通じて、時空は物質に包まれている。包みつつ包まれ、包まれつつ包むという垂直的次元におけるモナドロジックな反復運動―時空という場所から内部空間へと分け入り、内部空間からまた時空への表出へ。この世界がもう開き出している。
 
カバラ、カタカムナ、シュタイナー、ドゥルーズ、シオリズムetc。個人の嗜好性はさほど問題ではない。それぞれの人がそれぞれの個性の中にモナドの音楽を奏でていけばいい。少なくとも、このめくるめく螺旋音楽の中には否定される音は何一つない。
 
というところで、先日の向きづけの違う二つの複素平面の話の続き。この二つは同一平面上では重ね合わすことができないのだけど、捻りを入れて裏返せば虚軸と実軸を互いに入れ替えることができる。他者と共有された奥行きと幅がそこに登場するわけだ。そこに出現してくるのがいわゆる時間と空間と思うといいよ。
 
内に沈み込んでいた複素空間は、そこで外へと浮き上がってくる。僕らが自分の内に感じ取っている「横からの視線」というのが、この捻りの裏返しに相当している。
 
「奥行きにも距離(幅)がある」という感覚は、この横からの視線によって生じているわけだね。
 
時間と空間の発生はあくまでも結果。原因は複素空間としての持続世界にある。なのに、僕らは結果から思考を組み立てている。時間と空間の世界から世界を思考する。それがすべてを狂わせている。結果から見ると、他者の奥行きも自分の奥行きも同一平面上にあるかのように見えてしまうでしょ。なんせ、両方とも幅になっているわけだから。。こうした認識には両者の間にある「ねじれ」が全く感知できていない。
 
この捻れが感知できてないと、自分が横に回れば他者が見ている世界が見えるなんて思ってしまうわけだ。下の図をよく見てもらえば分かると思うけど、単に左側に自分の虚軸を回してみても、実軸の矢印は自分の方に向いてしまう。物の手前にいる自分………これが肉体的自我を作っていると思えばいい。3次元認識が肉体的自我を固定してるんだね。
 
実は、このねじれ関係は永遠に続いている。たとえば、ここで紹介した時間と空間の関係も自他では逆に構成されるというように。だから、精神はそれをまた捻って今度は「時空」という形で等化しようとするんだけど、そこでまた高次の捻れが生まれる云々、というようにね。
 
そのプロセスが延々と積み重ねられてきたものが物質だと考えるといいよ。つまり、精神には一つとなろうとするプロセスだけがあるのであって、決して一つ(全体)になることはないってこと。ここ大事だから、覚えておいてね。
 
一方、人間の方はこの根本的な捻れが常に見えなくさせられるところに停滞している、常に初期化させられている存在なんだよね。それが創造されたものを「受け取る」ということの意味。
 
等化の流れのヌースと中和の流れのノスというのはそういう関係にあるわけ。
 
でも、絶えることのないこの精神の歩みはこのノスをヌースに捻ろうとして新しいヌースへと歩を進めてくる。これが永遠回帰というやつだと思うといいよ。ドゥルーズが言うように同じものは回帰しない。それは無限が無限を乗り越えていく運動のようなものなんだ。
 
ヌーソロジーの根底にある思考線は、およそこんな感じだね。

沈み込み(内包化)から浮き上がり(外延化)の仕組み