“世界”を発芽させるために

自然の根底がなぜ複素空間で成立していて、かつ、その複素空間がなぜ対称性、それも局所的対称性を要請してくるのか―自然とは何かを考えるに当たっては、これからの時代はここが基本。でないと、内側からの自然というものをイメージできない。
 
例えば内側から炭素を見たときそれは一体何に見えるのか?―それは自分が炭素になって世界を語り、世界に参画するということでもあるだろう。本来、ヒトはそうやって内側から事物へと赴き、自分を外側へと表現してきたのだ。だから世界がある。この当たり前さを今の人間は忘れている。
 
すべては内と外とをつなぐ思考の復活にかかっているのだ。どのような身振りで君は中へと入り、また、どのような息づかいで君は外へと出てきたのか、君の無意識はそのすべてを記憶している。それは形而上と言って唾棄されるべきものでもないし、非現実の謗りを受けるものでもない。
 
たとえば、呼吸はどこに向かって吐き出され、またそこから何を吸い上げているのか。その見えない空隙の中へと全身で分け入ってみるなら、君はそこで大気と呼ばれている以上のものと大気の内において一体化することだろう。
 
イマージュを揺さぶり起こせ!! ”世界”はまだ出現していないのだから。

発芽