波動関数ψのヌーソロジー的解釈―素粒子は対象ではない

たとえば、物理学は波動関数ψ(x,t)の絶対値の 2乗を粒子の位置の確率密度(確率のもとになるもの)として解釈する。しかし、奥行きと幅を複素平面と見なし、それらを持続とイメージの空間として見なすなら、波動関数ψ(x,t)とは人間が対象認識を行うための持続構造の表現と解釈することができる。つまり、対象の周囲には常に人間の無意識が持つ持続空間が取り巻いているという、例のキュビズム的空間のことだ。→下リンク参照。
 
この回転にその鏡映(複素共役)を掛け合わせたものがΨ*Ψ=|Ψ|^2となって実際の確率密度を表す。
 
この回転を固定された虚軸の位置から見てみよう。すると回転している方の虚軸と実軸はどのように見えるだろうか。
 
それはすぐにイメージできるのではないかと思う。ともに左右方向に振動しているように見えるはずだ。これは、たとえば目の前に置いた棒を水平方向に回転させたときに、その棒が伸び縮みして見えるのと同じことを意味している。物理学では、この伸び縮みを位置(実軸)や運動量(虚軸)の確率の変動として解釈しているのだと考えていい。
  
しかし、果たして、これは粒子の存在確率などといったものだろうか?こうした「確率」といった解釈も「3次元空間が先にありき」と考える物理学の世界観がもたらしたものと考えた方がよさそうだ。
 
複素空間を持続空間と仮定するなら、話は全く逆で、本当は持続空間におけるこのような回転があるからこそ(持続なので本当は回転すらしていない)、意識は物体の位置を3次元的な認識の上にあげることができていると考えなくてはいけない。
 
早い話、世界は確率などで出現しているわけではない、ということ。
  
素粒子を対象(前もって3次元空間の中に確率1としてあると仮定されているもの)と見なしているから、確率なんて話になってしまうのだ。素粒子とは意識に対象(位置)を認識させているものであって、対象などではない。
 
となれば、素粒子を確率的存在と見なす考え方から派生してきている並行宇宙論(一瞬一瞬において無限数の宇宙へと分岐する宇宙)なんてものは最悪の仮説と言える。世界はかけがえのない唯一無二のもの。そう考えないといけない。

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