まずは「永遠」の決意のもとに、そのキャンバスを開くこと

記憶には二つの種類がある。ベルクソン的に言うなら、それは追憶的記憶と収縮的記憶ということにでもなろうか。追憶的記憶は文字通り思い出されたものであるが、収縮的記憶とは、思い出されたもの自体の記憶である。言い換えれば、物質自体がその内部に持つ記憶。
 
誰もが、心の奥に後者の記憶を持っている。
 
「思考が力を持つ」というのは、思考が物質を作り上げる力を持つという意味だ。そして、これは引き寄せの法則などで言われているような「思考は現実化する」といったような意味では決してない。両者はむしろ正反対の性格を持つ。決して混同しないように。
 
追憶的記憶においては、持続空間は記憶の容器として働く。しかし、一方の収縮的記憶においては、持続空間は創造的運動体として働く。追憶的記憶はこの創造的運動体を自らの器の中に映し出し、物質として記憶する。持続体の円環はそのようにして閉じている。
 
すべては記憶、とはそういうことなのだ。この円環を見出すことができれば、世界から外在という概念は消滅する。
 
ヌーソロジーではこのような円環をケイブユニバース(cave universe)と呼んでいる。
 
ベルクソンは「物質は記憶である」とし、物質と精神の垣根を取り払おうとした。しかし、追憶的記憶と収縮的記憶の差異を今ひとつ明確にしていない。追憶的記憶のための容器となる持続空間と、創造的運動体としての持続空間には絶対的差異があるのだ。この差異が、時空では素粒子と元素の違いとなって現れる。
 
その意味では、人間が現在、思考と呼んでいるものは、時空と追憶的記憶の間を反復している意識の産物ということになるだろう。これはこれで善いとして、別に、収縮的記憶の場で営まれている思考が存在している。それがヌースだ。ヌースをたまに反-思考と呼んでいるのもそのためだ。
 
今の僕らに決定的に欠如しているのは、こうした収縮的記憶の場に対するイマジネーションなんだよね。それは厳然として物質として生成しているにもかかわらず、それを時空の中に見てしまい、追憶的反復の中に閉じ込めてしまうものだから、思考が生きた物質の中に入れないでいる。
 
当面は、ヌースが活動している創造空間のイメージを精神に呼び起こすための試行錯誤が、あーでもない、こーでもないと、続く感じになると思う。とにかく、まずは、永遠を決意して、自分の中にそのキャンバスを開くことが重要なんだ。今度のシュタイナーとのコラボ本も、僕のパートはそういう試みの一つして書いた。物質を創造している全く異種の空間と、そこに働く知性というものが実在している。これは決意なんだよ。

ケイブユニバース