自然と人工

物理学の根底で働く諸力を精神の諸力と同一視していく思考の作業は、ある意味、自然それ自身になるために闘争する作業に近い。その所作を古代ギリシア人たちはフィシスという言葉で理解していた。ハイデガー風にいうなら、隠蔽性を解除するということ。もしくは、世界-建設の出来事。
 
隠蔽性の解除とは、瞬間の中に永遠の穴を穿つことでもある。人間の意識では立ち入り禁止とされていた物自体の内部へと不法侵入を果たしていくこと。それによって、わたしたちは「神」という呪いの言葉から解放されていくことになる。
 
そろそろ、「いるもの(現存在)」は「あるもの(存在者)」から逃れて、「なるもの(生成)」へと向かう必要がある。ハイデガーはそれが技術の本性だとも言っている。自然との共生もこの新種のテクノロジーの誕生によって初めて可能になるのかもしれない。
 
その意味で言うなら、人間のテクノロジーは見事に引っ繰り返っている。原因は自己と他者を逆さまに見ているところにあるのだろう。意識におけるこの錯視によって逆生成の模倣回路(シミュラークル)が生じている。ここにエネルギーを注いでいるのが資本主義の欲望だと言っていい。となれば、現代資本主義における貨幣とは、根源的時間の物象化と言えるものになる。時は金なり―言い得て妙だ。

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