ハイデガーのいう「存在」とは「霊」のこと

今回もハイデガー絡みの話。人間としてはあまりいい評判を聞かない人なんだけど、ハイデガーが頭の中で考えていたことは、誰がなんと言おうとも、やっぱり重要なこと。無視できない。
 
新プラトン主義から派生したドイツ神秘主義はもちろんのこと、そのルーツとなる古代のオカルティズム(古代ギリシア思想や東方の神秘思想)をいかに現代の哲学の中に蘇らせるか、ハイデガー哲学の独自な言葉遣いも、その動機に起因しているように思われる。ここはベタにその化粧を剥がしてみよう。そうすれば、少しは馴染みやすくなるかも………。
 
こういうことを言うと専門家に怒られそうだけど、ハイデガー哲学に馴染めない人は、存在とは霊、存在者とは物質、というように置き換えて読むのもいいかもね(「存在者」には目に見えないものも含まれているけど)。そうすると、存在と存在者の差異ってのは霊と物質の差異ということになる。
 
目の前の自然が単なる物質(存在者)にしか見えない症状―それをハイデガーは「存在忘却」と言うんだけど、これは「霊界忘却」と同じ意味だということだね(笑)。ただし、ここで言う「霊」とはあくまでもガイスト(=精神)のこと。ハイデガーでいうなら、これが「根源的時間」に当たる。
 
ハイデガーの哲学では、人間は存在者と存在の中間に住まう存在者として「現存在」と呼ばれてる。この文脈で言うなら。「人間とは霊へと方向づけられた物質」ということにでもなるかな。
 
人間の意識は、この霊への方向づけがあるからこそ成り立っているのであって、ベルクソンの場合は、この「霊」を「意識に直接与えられたもの」として「純粋持続」という言葉で表現したわけだね。
 
ハイデガーの哲学では、人間は存在者と存在の中間に住まう存在者として「現存在」と呼ばれてる。ここでの文脈で言うなら、「人間とは霊へと方向づけられた物質」ということにでもなるかな。
 
人間の意識は、この霊への方向づけがあるからこそ成り立っているのであって、ベルクソンの場合は、この「霊」を「意識に直接与えられたもの」として「純粋持続」という言葉で表現したわけだね。
 
時間が流れている世界で物を考えている限り、思考は存在者の世界からは逃れられない。思考が存在(根源的時間)に触れるためには、当然、時間のない世界に身を投げ入れるしかない。ハイデガーのいう「死の先駆的覚悟性」というのも、そういう意味だと考えるといいと思うよ。
 
そんなことしたら、時間の流れと共にある地上世界を無視した思考になるじゃないか、思う人もいるかもしれない。だけど、それは違う。目の前の自然には存在者と存在が重なり合ってある。この存在論的思考というのは、この重なりが見えるようにしようする試みなんだと思うといい。
 
言い換えれば、生者の世界と死者の世界の境界を取り払って、この世界をその大元から再構成する作業だということ。
 
 
存在の抜け殻としての存在者―物質を亡霊と呼ばずして何を亡霊と呼ぶのか。だから、目の前に現れてくる他者とは何者なのかと訊かれたら、オレはいつも言ってやるんだよ。「神の亡霊だろ」って。そうやって、人間と神ってのは存在者と存在の名のもとに重なり合っているのさ。

存在者 現存在 存在