果たして「構造」は舞い降りるのか―

20年ほど昔、『シリウス革命』という本を書いた。
 
いまどき革命などと言うと笑われるのオチだが、もちろん「シリウス」革命なのだから、この本で書いた革命は政治的なものでも社会的なものでもない。天上的なものだ。天上の革命が起こらない限り、地上の革命もやってこない。そういう趣旨の本だ。
 
ここでいう「シリウス」とは、物質的な意味においては、あのお馴染みの夜空で一番明るく輝いている恒星のことでもあるが、神話的には「〈もの〉が開始された場所性」のことでもある。人間の思考に、絶えず形而上学を要請してきた発信源の名称と言ってもいいだろう。
 
西洋のオカルティズムの伝統では「太陽の背後の隠れた太陽」とも呼ばれる。太陽がものを照らし出すことによって現象が浮き立つということの背後には、このシリウスの意図が働いている。つまり、太陽を太陽として方向付けている力の淵源が世界には眠っていて、それを神話はシリウスに見ていたわけだ。
 
シリウスは存在のシステムの転回力のようなものだ。古代エジプト人はそれを女神イシスに重ね合わせていた。女神なわけだから、これは豊饒なる生成の神と言ってもいい。ハイデガーが「最後の神」の到来と呼ぶものも、神秘学的には、このシリウスの陽の降臨にイメージが重なる。
 
ラカンは「革命とは構造が街路に舞い降りることだ」と言っていたが、おそらく、ラカンは人間が用いる言語と意味の活動が空間に折り重なってあると強く感じ取っていた。「意識の中」などといった漠然とした感覚ではなく、今、目の前の空間上に言葉と意味がリアルに振動し合う場所がある……。
 
彼もシリウス熱にやられていたわけだ(笑)。ハイデガーのいう「存在」を知覚と言葉の構造の中に追い求めて、ラカンは晩年にはトポロジーに取り憑かれた。しかし、そこからは誰もついていけていない。ラカンのトポロジーを発展させ、存在に結びつけようとしたのはガタリぐらいだろうか。
 
ドゥルーズはこのシリウスの領域を「差異」と呼んだ。彼の差異に対する定義は「所与を与える当のもの」というように、至って簡明なものだ。受け取るものから、与えるものへ―カバラでいうベヒナ・ギメル(Behina Gimel)。受け取りを授与の形にする方法の発見。「存在」の行為を模倣することの決意。
 
世界を授与性で満たすこと。これが生成が持った衝動であり、女神イシスの役割でもある。受け取りの空間から授け与えの空間への移行。これがハイデガーのいう「存在」の開示の意味でもある。
 
ハイデガー=ドゥルーズの哲学が一貫して表象=再現前化の批判を行うのは、表象化が受け取ることしか望んでいない無意識の欲望の形式だからだ。受け取りは受け取りを当たり前とし、その「当たり前」が表象化されたものが自我なのだ。だから自我を超えるためには表象化を脱する意識の構成力が必要なのだ。
 
それがラカン(構造主義者たち)のいう「構造」だと考えるといい。構造が街路のみならず、野原や、海辺や、一人一人の部屋の中へと舞い降りるなら、世界は何か別ものへと変質していきはしまいか。それこそ、ペンテコステ(聖霊降臨)の風景と呼びたいところだが……。
 
受け取りは幅(延長)において行われ、授与は奥行き(持続)において行われる。この単純明解な反転性に、わたしたちはそろそろ気づいてもいい頃ではないか。奥行きが作る持続構造が幅が作る延長世界に舞い降りたとき、世界は再び転回を開始する。それがハイデガーが幻視した「性起」に他ならない。