小林秀雄はほんと進んでた人だなぁ、とつくづく。

物質と精神のつながりを思考する材料として、量子論は格好の素材であるにもかかわらず、量子論の哲学を語る学者は少ない。特にベルクソン=ドゥルーズの系譜にあるに哲学ならば量子論は避けては通れないところであるはずなのだけど、ネットで検索をかけてもほとんどいない。
 
日本だと小林秀雄ぐらい。小林は哲学者ではないけど、50年以上前にベルクソン論を書いて、そこでベルクソン哲学と量子論の関係を考察している。驚くべき先進性だ。当時はかなり酷評されたらしいが、個人的にはもっと研究されるべき価値ある論考だと思う。
 
小林は岡潔との対談で、自分の書いたベルクソン論について、自分が無学で力尽きたと言っていた。こんなセリフ、今哲学やってる人たちからは多分聞けない。彼は戦っていたんだろう。誰と? もちろん、人間と。それが哲学の使命ではないのだろうか。興味がある方は是非、一読をおすすめする。
 
小林はこの論考の中で知覚の二重性について何度も語っていた。主観と客観。質と量。連続と不連続。それらは相互に絶対に相容れない空間で活動している。しかし、いまだに私たちは、それを区別することのできる空間概念を持っていない。この不明瞭さが人間を作っている。
 
こういった知覚の二重性と量子論は密接に関係している。ヌーソロジーがバイスペイシャル(時空と複素空間の二重性)認識を訴えているのも、そのあたりの理由からだ。主観の元となる主体は時空にはいない。見るものである主体は奥行き=持続として収縮し、見られるものとその根底で連続的につながっている。
 
小林も、ベルクソンを受けて次のように書いている―持続するものという共通な糸が〔物質と精神の〕両者を結んでいるのであり、精神の持続と深い類似を持った或る種の持続が、又、物質の本性を成す。
 
この思考線に沿って、根気強く空間を開いていくこと。そうすれば、僕らは物の秘密に触れることができる。又、人間を脱-人間化させていく方向も、その方向にしかないだろう。

小林秀雄全作品〈別巻2〉感想(下)