3月 21 2008
カフェネプ復活
ボクの現実から見ると、人間の文明の進歩というものは、
まるで廃墟の積み重ねのように見える。
ボクたちは何とかこの廃墟のガラクタを片付けたいと思っているのだけど、
人間たちが作り出す文明の進歩によって巻き上がる強風が翼を煽って
邪魔をするので、なかなか思うようにいかない。
(ある天使のモノローグ)
天使的に生きようとするのはとてもしんどい。
もちろん、天使的という言葉を当の本人が使った時点で、天使的ではなくなっているというのは百も承知だけど、やっぱり、天使的に生きようとするのはしんどい。
そんな理由もあって、
今から、約2年前の2006年2月28日に、
ヌースアカデメイアの談話室「カフェ・ネプチューン」を閉鎖した。
閉鎖=クローズすること、連続性を断つこと、鉄の鎖で門を閉ざすこと………嫌な言葉だなぁ。
あらゆるものは呼吸を行なっている。
あらゆるものは交換を行なっている。
あらゆるものは書簡を交わしている。
同じところ、同じもの、同じこと、の中にクローズすることは、やっばり、あらゆるものからの逸脱を意味するんだな。。。
ヌースは双子の天使の眼差しの交差の中に育っていくものなのだから、
やはり、そこには語らいが必要だ。
あらゆるものを媒介する水の精神を大地に蘇らせること。
水引だ——。
そこで、また考え方を変えた。
本日から、カフェ・ネプチューンを再開します!!
ヌースアカデメイア日本語フロントページの「ATRIUM」から入れます。
今すぐカフェネプに入店されたい方はこちらをクリック→[Cafe Neptune ver.2.0]
3月 22 2008
時間と別れるための50の方法(3)
●アルケー、十字架、イエス・キリスト
ルシファーとしての光は左右方向に横切る光。それは秒速30万Kmとしての光。
ルシフェルとしての光は奥行き方向に存在する光。それもまた秒速30万Kmとしての光。
これら二つの光の違いとは一体何か——。
奥行き、つまり身体にとっての「前」という方向性は左-右でも上-下でもない何か特別な方向性です。僕らの見るという行為はこの「前」という方向性においてしか成立することはありません。現象とは「前」で光として開示している何ものかです。ハイデガーという哲学者は『存在と時間』という著書の中で、「現象」を「自らをそれ自身に則して示すもの」として規定し、存在を現象にもたらすことを現象学の根本課題と見なしていました。存在は、あらゆるものが現出してくるその根拠として先行的に了解されているという意味では、最も自明であり、最も現象の名にふさわしいものですが、「わたし」という自我が出来上がったのちの認識される世界においては、現象は姿を隠し、それは匿名的に機能し隠蔽されてしまいます。時空という名において捉えられる「前」と、それ以前にある「前」とは、その意味で全く違うものとして考える必要があるわけです。
奥行きに左右と同じ幅という概念を与えることによって長さを持たせることは、現象そのものを見えなくさせてしまいます。現象とはいかなる判断をも与えられる以前の裸形の「前」のことであり、この純粋知覚としての現象は視野空間上でペタンと面に潰され、薄い皮膜(アンフラマンス)のようなものとして存在させられています。前回、奥行き方向とは時空の方向であり、そこには空間的距離とともに時間の経過も含まれていると言いました。とすれば、奥行き方向が一点で同一視されているというこの知覚的現実は、そこにすべての時間的経過をも内包している、ということになります。「わたし」がこの世に生を受けたのがたとえ50年前だとしても、この純粋知覚の中に含まれている奥行きという空間の深みの中には137億年という宇宙開闢以来の時間の流れが一緒に畳み込まれているということです。つまり、奥行き方向に存在する光においては、「今、ここ」と宇宙の始源の場所とは同じものとして考える必要があるわけです。僕がいつも「始源(アルケー)」と呼んでいるのはこの薄い皮膜、存在の皮膚としての光のことを言います。
アルケー=光。この覚知に至ることがヌース理論でいう「人間の外面の位置の顕在化」です。今まで人間の意識の営みの中で隠蔽されていたほんとうの主体が姿を現すのです。この奥行きにおいての無限小の厚みの中に、今という永遠が存在している。そして、そこが「わたし」という存在の根本的なプラットフォームになっている。現存在としての人間が位置する場所にはこのような永遠が常にセットになって張りついています。これをクリスチャンならば「我、神とともにここに居ます」と表現することでしょうし、哲学者であれば「不動の大地」と呼ぶことでしょう。こうした思考のもとにおいてのみ、何故に相対論において光速度が絶対的な役割を果たしているのかが分かってきます。物理学が解釈を放棄している4次元不変距離(ds^2 = dx^2 + dy^2 + dz^2 – c^2dt^2 ds^2 = 0)の本質的な意味が見えてくるわけです。
目の前で無限小の厚みにまで潰された時空。これが現象の基底としての光の正体であり、その光が持つ速度のもとでは時計の針は止まり、空間は無限小の長さにまでに縮まり、4元ベクトルゼロが出現してきます。つまり、何が言いたいのかというと、一点同一視された奥行き方向としてのこの4次元こそが、アインシュタインが言うところの「無限大の速度としての役割を演じている光」そのものの意味だということです。そして、この永遠が張りついた場所こそが時間の流れ自体を感じ取っているほんとうの主体の位置にほかなりません。要は、ほんとうの主体とは見ているものでも、見られているものでもなく、見ることそのもの、つまり、光だということなのです。このことに人間の意識が気づいたとき、すべての人間は創造の開始者、つまり、アルケーとしてのイエス・キリストへと変身することが可能になります。
コ : 見ること自体が「真の主体」なのではないですか?
オ : はいそうです。有機体(カタチのない精神)が最初のカタチを持ったということです。
永遠の相のもとに現れる形。これがOCOTが「カタチ」と呼ぶ、形本来の形のことです。このことは、幾何学とは本来、永遠という場所性の中においてしか意味を持ち得ないということを物語っています。時空の中でカタチを構成するのは原理的に不可能です。たとえば、僕らが地球と月を結ぶ38万kmの長さの線分をイメージするとしたらどうでしょう。たとえその線分を光速度で追いかけたとしても、時空の中では1.3秒ほどの時間かかってしまうことになります。しかし、実際の意識を確かめてみれば分かる通り、月までの距離を想像するのに時間は必要としません。カタチはその大きさがどのようなものであれ、一瞬で即時に把握されている何かです。また、一瞬で把握されなければカタチという概念自体が意味を持たないものになってしまうことでしょう。正4面体を構成する4つの頂点を認識するとき、それぞれの点の把握にタイムラグがあれば、正四面体というカタチについて何も言えなくなります。ほんとうの主体とは永遠性のことであり、この無時間の主体の位置の連携によって初めて幾何学というものが構成されてくるのです。
オ : 人間の意識はカタチを見る方向に入っています。わたしたちのいうカタチとは見られるものではなく、見ているもののことなのです。
目の前に表れた視野空間上にx軸とy軸の十字架をそっと置くこと。そして、そこで磔刑に処されている光の意味について考えること。さらに言うならば、そこに垂直にイメージ化されている3次元目のz方向の意図について深く思考すること。このz方向としての幅と同一化してしまった空間的奥行きとは、光の身体であるイエスの脇腹に刺されたロンギヌスの槍のことであり、人間の意識をシリウスに接続させることを妨げている深淵のことなのです。この深淵の支配者が時間であり、人間という次元の本性です。
By kohsen • 時間と別れるための50の方法 • 9 • Tags: ハイデガー, 内面と外面