8月 30 2017
物質と精神のつながりをイメージしながら自我についても考えていくこと
水平性の中に突き刺さっている垂直性。それが物質です。まずはこうした構図を設定しないと、自然の謎は決して分かりません。ここでいう水平性とは時間と空間のことです。物質の起源は時空の中にはありません。20世紀になって登場してきた量子論はそのことを明らかにしてきたのだと思います。
この前のアトリウムでは、こうした量子のことをシュタイナーの予言にあやかって「エーテル界のキリスト」として話しました。
物質的知性のクセは量子を対象として見たがります。それをやらせているのは、言うまでもなく、幅化した奥行きです。物理学的思考はなかなかこの「幅化した奥行き」の呪縛を払拭できません。奥行きに幅が入ると、本来の奥行きは一瞬でズームアウトされ、ミクロ世界の中に観察されてしまいます。
主客分離という悲劇が発生するのも、まさにその瞬間なんですね。
そして、この主客分離の領域をフランチャイズとして生きているのが、私たち人間の自我です(シュタイナーのいう自我とは意味合いが違うので注意)。
シュタイナーは「エーテル界のキリスト」の登場は1930〜40年ぐらいになると言っていました。そして、それは知的な営みの中において現れるとも。
シュタイナーは、このキリストの存在はアーリマン的なものとルシファー的なものの調停者として現れてくると言います。シュタイナーのいうアーリマンとルシファーとは、簡単に言えば人間の中に潜む二つの悪のタイプのことです。この二つの悪は、象徴的に言うなら、科学的悪と宗教的悪とも言っていいものです。
その意味で、一応、アーリマン的なものを、私たち人間の客観的な意識に潜む悪としましょう。これは科学的唯物論などをイメージするといいと思います。
一方、ルシファー的なものを主観的な意識に潜む悪と考えてみましょう。これは、宗教的な超越主義や、それが引き起こす幻想の類のようなものです。
そのように仮定するなら、今度、私たちの眼の前に出現してくるキリストは、主観的とも客観的とも呼べないような、奇怪なものとして現れてくるはずです。なぜなら、それは、主観と客観を調停する存在形態を持っているはずですから。
そうした奇怪な存在が果たして、1930〜40年辺りに「知的に」登場してきたか。。。ヌーソロジーはこの問いに「然り!!」と答えます。
量子ですね。量子こそシュタイナーが予言した「エーテル界のキリスト」。そのように考えるわけです。
問題は、量子を相も変わらず、物質として見ようとしてしまう人間の認識が持った頑ななクセです。量子が物質の存在形態を持っていないことはすでに分かっているにもかかわらず、相も変わらず物質というフィールドの中に監禁したままにしている。
量子を外的に見ることは、そろそろヤメにして、内的に見ることを開始してはどうでしょうか。そうすれば、知的に登場してきたエーテル界におけるキリストは、エーテル形姿として、今度は私たちのエーテル知覚の中にはっきりと姿を現してくるはずです。人間すべての内在性の中にキリストは生きているんですね。宇宙の始源(アルケー)として。
9月 15 2017
木の実と食べる鳥と見つめる鳥のお話再び
目の前の空間には二種類の空間が重なり合っている。この二重の空間知覚のことをヌーソロジーではバイスペイシャル(bi-spacial)感覚と名付けることにした。一つは時空、もう一つは素粒子の空間だ。
時空は経験的自我の活動母胎となり、素粒子の空間の方は超越論的自我の活動母胎となっている。ヌース的には中和側と等化側と言っていいように思う。人間は中和先行型の意識を持つために、この超越論的自我が活動している空間の方は無意識の中に眠っている。
この、超越論的自我が活動している場所が持続空間だ。
ヌーソロジーが目指しているのは、この経験的な自我と超越論的な自我の主従関係を逆転させた空間認識を作り上げること、ということにでもなろうか。自分というものを作り出しているもの側の空間的な組織を認識に露わにするということだ。
シュタイナーとのコラボ本の作業をやってハッキリと分かったが、この超越論的な自我が働いている世界がエーテル界ということになる。物質界の意識から、エーテル界の意識へと意識の在り方を変える、ということ。いや、より正確に言うなら、これら双方の意識の両刀使いとなること。それがトランスフォーマー(変換人/人間を変形していく者)のイメージでもある。
経験的自我は言語と概念に傾いている。その傾きを超越論的自我の方へと是正している働きがある。それが、僕たちが知覚や感覚と呼んでいるものの世界だ。その意味で、知覚や感覚は超越論的なものの世界を探る手掛かりにはなるが、それだけに頼っても、結局のところ、傾きの是正以上の域に出ることはできない。回り回って、また経験的なものを反復するだけに終わってしまう。
ヌーソロジーには身体性(人間の生身の経験性)が欠如している、といった批判をよく受けるのだけど、感じることを蔑ろにしているわけじゃ決してない。感性的なものにいくら意識的になっても、ここで言ってる「超越論的なもの」を露わにすることはできないと考えているからだ。顕在化はヌース(能動思考)が先手でないと起こりえない。これは感覚を先手に持つということとは違う。そう独断して、まずは、持続における場所性を作ることが最重要だと、決め打ちしている。
つまり、超越論的なものは感じるものではないということ。それは、ドゥルーズやOCOTの言い分を参考にする限り(笑)、「感じさせているもの」なのだ。それは感性のような受動的な働きではなく、敢えて言うなら、能動的な感性の働きなのだ。
たとえば、誰もが目の前に点をイメージすることができる。しかし、その能力がどこからやってきているのかは誰も知らない。それをやらせているものがいるから、僕たちはそれができる。この「やらせているもの」側の正体を露わにしていくのが、ヌースの思考だと考えるといい。
つまり、世界には、「感覚されるもの」と、「感覚するもの」と、「感覚させるもの」とが存在している、ということ。僕らは、もちろん「感覚されるもの」と「感覚するもの」の中で生きている。だけど、肝心の「感覚させるもの」の世界がどこにあるのかが分からなくなっている。
これら三者の関係性は『シリウス革命』で紹介した、例のウパニシャッドの逸話と同じ関係を語っている。すなわち、木の実、食べる鳥、見つめる鳥の三者の関係だ。
食べる鳥(感覚化するもの)は、一生懸命、木の実(感覚されるもの)を食べているわけだが、食べる鳥を、その背後で一生懸命見つめている鳥がいる。それが、さっき言った超越論的な自我に当たるのだと考えるといい。そして、感覚するものが感覚しているものとは、実は、この見つめる鳥の影でもあるということなのだ。
物質と精神はそのようにして、三位一体のトリアーデのもとに一つの円環を描いている。この円環を再生することが、万物復興の意であり、宇宙を正しく見る視座であると言える。
エーテル界が見えてくれば、この詩的な寓話的ビジョンは、実在的な確信に変わってくるはずだ。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: エーテル, シリウス革命, トランスフォーマー, 素粒子