4月 1 2016
君の魂のカタチについて・・・Into the ether
3次元射影空間のカタチについて紹介しておきます(下図参照)。
これは「観点の球面化」が意識に達成されたときに見えてくるカタチです。最初の内なる火(霊)である正四面体を生み出す卵のようなものと考えるといいでしょう。
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3次元射影空間のカタチは、おそらくカタカムナ人たちが「アマウツルマリ」と呼んでいたものだろう。これは奥行きに持続を見たときの宇宙球そのものと考えていいが、それは宇宙全体を包むものであると同時に、目の前の一つの物体に重なって在る。
この重なりが見えてくると、一つの対象に対する知覚がわたしの心の全記憶とともに成り立っているということが、カタチそのものの認識の中で分かってくる。これがアマウツルマリが「アマヤドルマリ」でもある所以だ。ここに「もの」の知覚が訪れる。
記憶という記憶がすべて脱性化されてしまった干からびた対象としての物体ではなく、生きる持続とともに活動する生ける物体。それが古来より日本人が「もの」と呼んできたものだ。だから、それは当然、泣き、笑い、悲しみ、喜ぶ。主客未分離とはこのような空間の二重化の上で成り立っている。
こうした「もの」の知覚を行っている視線がミショーのいう「死の線」だろう。この「死の線」は他者たちが作る複数の「死の線」と「もの」の場所で出会い、そこで回転し、次なるマリであるトキトコロノマリを作り出す。そのとき非局所は局所へと無数の分身を送り出す。
トキノマリとは陽子のこと。トコロノマリとは中性子のこと。呼び名は変わっても、それらは人間の死の向こうで永遠に生きている。自己と他者がそれぞれの死の向こうにトキノマリとトコロノマリを見出し、永遠の我と汝へと変身できたとき、彼らは太陽の住人となってこの世界に舞い降りるだろう。
そのとき、地上のあらゆる物体に太陽が宿る。
10月 28 2016
モーツァルトVSサリエリ
本当の「見てる」というのは、中から見ている意味であって、それは目で見ているわけではないの―もののケのしおりちゃん語録「眼力の悪用についてしかめっ面をしながら語ってみる。」より
しおりちゃん絶好調だよね。哲学の歴史が現代思想に至ってようやくたどり着いた人間の無意識の構造について、「壊れた十字架」と「完全でも不完全でもない十字架」とのメタファーで見事に説明している。現実界が消え去って、象徴界と想像界の中でパパ-ママ-ボクの三角形が生まれてしまったというストーリー。
本当はカムナがアマナを包んでいたのだけど、カムナが落ちてきて、アマナの中に入り込んでしまう。それによってアマナも死んでしまう―
カムナとアマナというのはカタカムナの言葉だけど、本を読んだのかな? アウノスベシレの中にトキトコロは生まれてきたのだけど、トキトコロが生まれたと同時に、アウノスベシレはトキトコロの中に落っこちてしまう。それによってトキトコロは死んだアマナとしての時間・空間になってしまう。そんなことを話してる。
カタカムナ的にいうと、これによってアウノスベシレは忘却されてしまうんだね。しおりちゃんの言い方をすると、人間は地球から追い出されてしまったってこと。
物質の起源というのは本当は時間と空間の外部にあるものなんだけど、人間は体を持ったことによってそれを時間と空間の中で見るようになってしまったんだね。外部(時空)の外部(霊的世界)は実は時空の内部に見えている物質になっているんだ。この仕組みを理解するためには、まずは自分自身が時空の外部(無限遠点)に出なくちゃダメ。そして、そこから一気に物質の中に滑り込む。この滑り込みを行っているのがカムナ(ビデオでは黒色で描いている)だね。
本当の「見てる」というのは、中から見ている―ベルクソンが言ってることでもあるけど、持続が収縮して対象の中に入っているということ。それが奥行きのことだよ。
10分にも満たない話なのにホントすごい情報の凝縮度なんだよね。行雲流水さんがしおりちゃんをモーツァルトに喩えていたけど、その喩えでいくと、ヌーソロジーってサリエリじゃん!!ってな感じ。ちょー、カッコ悪りぃ。まぁ、才能の差は歴然だけど、通訳はできるんでご容赦を(笑)
By kohsen • 01_ヌーソロジー, カタカムナ関連 • 0 • Tags: もののケのしおり, カタカムナ, 行雲流水