11月 9 2016
しおりちゃん語録へのヌーソロジーからのコメント
先日、しおりちゃん語録の解説を少しだけ上げました。補足して、ここでも紹介しておきます。
もののケのしおり~ちょっと新しい感じ方~
http://ameblo.jp/mononokenoshiori/
○生5角形と死5角形の表裏反転。
ゼロすらない(死:ウラン)をゼロが押し上げられた時は
ゼロ(生:ケイ素)は無限小でゼロすらないが無限大。
ゼロがゼロすらないを抱っこする時
ゼロが無限大でゼロすらないが無限小。
H25.8.1(2)
【コメント】
五角形は持続(生命)の永遠性が象徴化された形だね。その本質は自己と他者の接触面にある。シリウス革命でも書いたけど存在としての「1」は「5」で成り立つ。数でいうと「1」は「e(自然対数の底)」。「2」は「π(円周率)」。「3」は「φ(外分黄金比)」。「4」は「φ’(内分黄金比)」。
自己と他者はそれぞれが反照的な存在だから、「2×2=4」という双対関係を基盤に持っている。その意味で言えば、自他は黄金比によって分割された存在と言っていい。このときの「5」とは両者の接触境界面に当たる。ただ、この接触面にも表と裏があります。人間の世界ではこの接触面が力の減衰の方向に向いている。地獄鏡の方向と言っていいかな。しおりちゃんはそれを「死の五角形」と呼んでいる。生命力の減衰への渦が生成とは逆方向の渦となって持続空間からこぼれ出てる感じだね。要は霊の出血。光や熱のことだと思うよ。
ウランはヌーソロジーでは宇宙精神の構造全体における中和の位置、ケイ素は現在の人間の意識次元における中和の位置に当たる。ともに「14」の系列に相当しており、両者ともにそれぞれの次元領域における精神の「相殺」の役割を持っている。相殺は中和とほぼ同じ意味なので、そこに出現してくるのが生命の永遠部分だと考えるといい。ウランは生成のすべてを意味しているので人間の意識には人間の肉体として、ケイ素は物理学的時空(空虚な時間の形式)として反映されている。二つの力が合わさって物質的な自然世界の出現を支えている。ってことだね。シュタイナーのいう物質体の複合位置。
○二つの地球
物があると思うのは2つ重なる地球が1つに見えるからで、空間が光だと思うのは自分が闇になってるからで、時間を感じるのは双子が居ないからで、家が欲しくなるのは自分の心が運と思ってしまい、生活は自分の外側に話す人が居ると思ってるから、とか。
【コメント】
しおりちゃんのいう双子とは自己と他者が二つの奥行きとして乖離し、それぞれの中に双子を持つ状態のことを言っている。つまり、二枚の複素平面のこと。ヌーソロジー的に言えば、複素2次元空間から始まる定質と性質の対化ということになるね。しおりちゃん風にいうなら二組のカムナとアマナのこと。こうした双子の世界では実は「物=対象」は存在しなくなる。みんな、「もの」になって「物」の中に入っていくから。光と闇というのは「もの」の外に疎外された意識における二元性だと考えるといいよ。だから物体というものは光と闇のコントラストとして出現しくる。光と闇は自己と他者とほとんど同意だね。時間は双子のカムナ(奥行き)の一体化によって生まれてくる。これは数学でいうと虚軸(i)×虚軸(i)=-1(負の計量)。この-1の働きが「父」だね。物体はこの父の視線によって概念化されている。これは意識における内的視線(奥行き)が左右や上下方向を向くことと考えるといいよ。実はそこに時間が生まれているということ。持続が幅側に回ることによって延長的なものとして現れてくるわけだね。この視線の発生によって地球も物体のようになっちゃう。本当は双子のカムナとアマナの場所なのに。
○対立物の同一化における弁証法
2つの良い所を組み合わせるハイブリッド・・・遺伝子組み換え、両性具有などの様々な思想。2つの天秤が入れ替わる。しかし、それらはあまりにも単純な思想で、天国も地獄もどちらも地獄。私達は、混ぜ合わせるほど地球に居ない場所で退化したのだとか。
【コメント】
下の写真を見ると分かると思うけど、二組の天と地の天秤がどちらも上下で方向を揃えているよね。これが本来の四元性が二元性へと落ちている原因。父の機能のことだと思うといいよ。ただし、天-天と地-地の二元性に分かれたように見えても、実は二つの天と地は捻れた関係も潜在的に含みもっていて、この二元の間に入って密かに双子の力を媒介している。そのカタチの原型がメビウスの帯だね。でも、天と地の二者関係しか見えない人間の意識にはこの中間の媒介領域を見ることができない。だから、内=外、外=内という感覚が死んじゃってるわけ。この不感症をいいことにして、父による二元統合の弁証法的欺瞞が毎日のように延々と続けられていく。要はミキサーの中で黒ごまと白ゴマが限りなく混ぜ合わされ、灰色ゴマに加工され続けているということ。差異なき同一性のループだね。差異を抹殺しようと働いている一者=父の機械。こうした状況もまた人間の意識の物質への偏映がもたらしているということ。
○王としての「13」
1~13のトランプカードを作る不思議っ子。「トランプは人間社会構造(退化していく)そのものなの。でも、14のカードは元々ないので13で終了(13も元々無いから14も無い)していて、永遠の振り出しに戻る事、それが不確定性。」だとか。。
【コメント】
ヌーソロジーでも人間の意識構造は「13」が取り仕切っている。「13」とはご察しの通り「死」の象徴数。死が真の主体として姿を消し、人間の生のすべてをそっと観察しているというわけ。イシス-オシリス神話風に言えば、「14」であるオシリスの生殖器が行方不明になって、「13」の見えない壁の中に「1~12」の営みだけを与えられて閉じ込められている。この「13」の壁は「14」が見つからないと絶対崩れない。14が見つかれば、「13」と「14」は新しい「1」と「2」になって次のステップへと旅立っていけるんだろうけどね。振り出しに戻されることなく、次のステップへと上がってみたいものだね。不確実化した人間の宇宙に対して、確実化した地球の中では、果たしてどんな世界が待っているのだろう。僕はもうすぐ人間もその世界を見れるようになると思ってるんだけど。
○火の空間と光の空間
火の空間(球)を、憎んで作り変えようとして表れたのがルシファーの光の空間(円)。そのため、私達の感じ方は、+か-だけの感覚になってしまったのだとか。憎みを隠すこと(+)=憎むこと(-)、私達が悪と感じている根源・・・。H26.6.4
【コメント】
数学的に言うなら、「球」はSU(2)。「円」はU(1)。物理学的にいうならフェルミオンの世界とボゾンの世界の関係に対応させることができる。ヌーソロジー的にいうなら、等化の世界と中和の世界だね。しおりちゃんは実は一貫して同じことを言っている。つまり、父による同一性の力が人間の世界を支配しているってね。双子が殺されちゃったわけだ。そして、それによって地球から人間が追い出されているって。「球」の世界に入るためには、外的な絶対的中心を見出さないとダメ。自分の身体を中心点において、自己中心的に宇宙を見ている限りは絶対に「球」の世界には入れない。
しおりちゃんは、ここにもある「憎む」という言葉を結構多用していて、しかも力を入れて話すんだけど、これには若干の抵抗があるね。もっと淡々と言っていいんじゃなかろうか。地球は決して人間を憎んでなどいないと思うから。OCOT情報ではそう。人間を愛おしく思ってる。
9月 15 2017
木の実と食べる鳥と見つめる鳥のお話再び
目の前の空間には二種類の空間が重なり合っている。この二重の空間知覚のことをヌーソロジーではバイスペイシャル(bi-spacial)感覚と名付けることにした。一つは時空、もう一つは素粒子の空間だ。
時空は経験的自我の活動母胎となり、素粒子の空間の方は超越論的自我の活動母胎となっている。ヌース的には中和側と等化側と言っていいように思う。人間は中和先行型の意識を持つために、この超越論的自我が活動している空間の方は無意識の中に眠っている。
この、超越論的自我が活動している場所が持続空間だ。
ヌーソロジーが目指しているのは、この経験的な自我と超越論的な自我の主従関係を逆転させた空間認識を作り上げること、ということにでもなろうか。自分というものを作り出しているもの側の空間的な組織を認識に露わにするということだ。
シュタイナーとのコラボ本の作業をやってハッキリと分かったが、この超越論的な自我が働いている世界がエーテル界ということになる。物質界の意識から、エーテル界の意識へと意識の在り方を変える、ということ。いや、より正確に言うなら、これら双方の意識の両刀使いとなること。それがトランスフォーマー(変換人/人間を変形していく者)のイメージでもある。
経験的自我は言語と概念に傾いている。その傾きを超越論的自我の方へと是正している働きがある。それが、僕たちが知覚や感覚と呼んでいるものの世界だ。その意味で、知覚や感覚は超越論的なものの世界を探る手掛かりにはなるが、それだけに頼っても、結局のところ、傾きの是正以上の域に出ることはできない。回り回って、また経験的なものを反復するだけに終わってしまう。
ヌーソロジーには身体性(人間の生身の経験性)が欠如している、といった批判をよく受けるのだけど、感じることを蔑ろにしているわけじゃ決してない。感性的なものにいくら意識的になっても、ここで言ってる「超越論的なもの」を露わにすることはできないと考えているからだ。顕在化はヌース(能動思考)が先手でないと起こりえない。これは感覚を先手に持つということとは違う。そう独断して、まずは、持続における場所性を作ることが最重要だと、決め打ちしている。
つまり、超越論的なものは感じるものではないということ。それは、ドゥルーズやOCOTの言い分を参考にする限り(笑)、「感じさせているもの」なのだ。それは感性のような受動的な働きではなく、敢えて言うなら、能動的な感性の働きなのだ。
たとえば、誰もが目の前に点をイメージすることができる。しかし、その能力がどこからやってきているのかは誰も知らない。それをやらせているものがいるから、僕たちはそれができる。この「やらせているもの」側の正体を露わにしていくのが、ヌースの思考だと考えるといい。
つまり、世界には、「感覚されるもの」と、「感覚するもの」と、「感覚させるもの」とが存在している、ということ。僕らは、もちろん「感覚されるもの」と「感覚するもの」の中で生きている。だけど、肝心の「感覚させるもの」の世界がどこにあるのかが分からなくなっている。
これら三者の関係性は『シリウス革命』で紹介した、例のウパニシャッドの逸話と同じ関係を語っている。すなわち、木の実、食べる鳥、見つめる鳥の三者の関係だ。
食べる鳥(感覚化するもの)は、一生懸命、木の実(感覚されるもの)を食べているわけだが、食べる鳥を、その背後で一生懸命見つめている鳥がいる。それが、さっき言った超越論的な自我に当たるのだと考えるといい。そして、感覚するものが感覚しているものとは、実は、この見つめる鳥の影でもあるということなのだ。
物質と精神はそのようにして、三位一体のトリアーデのもとに一つの円環を描いている。この円環を再生することが、万物復興の意であり、宇宙を正しく見る視座であると言える。
エーテル界が見えてくれば、この詩的な寓話的ビジョンは、実在的な確信に変わってくるはずだ。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: エーテル, シリウス革命, トランスフォーマー, 素粒子