9月 20 2022
ハイデガーの存在の思考をヌーソロジー的に示すとこんな感じ
物の外部には実は瞬間性しかない。物は現れたと思ったら、その像はすぐに記憶として物の内部へと奥行きを通して回収されて行っている。そこで回収を行っているのは、紛れもない”持続”としての自分であって、この毎瞬、毎瞬の回収性のなかに時間感覚が生じている。物の運動イメージ一つとっても、こうした回収によるものだ。ベルクソン感覚だね。
問題はそうした毎瞬がどのようして物の外へと飛び出してくるのかってこと。構造的には、それは他者に見られるという経験が発現させてくるものなのだけど、物は自分自身を外から物質として見るために、他者を用意したのだとも言える。他者から見られて自我が生まれるのも、物が自分を物質として見る拠点を持つためだと考えるといい。
いずれにしろ、時間は4次元(持続)の反射物として生じてくる去勢された精神のようなものであって、それによって生じる鏡像世界の中に人間という場を作り出す働きを担っている。ハイデガー風に言うなら、時間は企投であり、それによって物の外へと被投された存在が人間だということだ。
当然、この人間はそこから再度、持続としての物の内部に方向づけられている。それがハイデガーいうところの現存在としての人間ということになるのだろう。世界-内-存在としての人間(現存在)という表現も、このような存在のループの中に一つの位置を持つ人間、というイメージから来ているんだと思う。
ハイデガー哲学の初期の構成をケイブコンパスで見ると、下のような感じになる。ケイブコンパスの見方が分かっている人は、是非、ケイブコンパスの構成と、ハイデガーの思考を重ね合わせて見るといい。おそらく、その辺の解説書よりはハイデガーの思考がよく理解できるようになるんじゃなかろうか。
ケイブコンパスの内側の円で示したところ(元止揚)はモノに当たるので、すべてはモノの運動ということになる。このときのモノというのがハイデガーのいう”存在”だね。モノを単なる対象として見ている限り、存在は忘れ去られたままだっていうこと。それが「存在忘却」の意。
同時に、このケイブコンパス上のΨ1~10は核子(陽子・中性子)の構造にもなっているので、ヌーソロジーでは、素粒子知覚が存在を開示してくる、という話につながっている。ここがハイデガーとは違うところだね。ヌーソロジーでは存在の開示は民族の生起などといった話には行かず、自然そのものの中への侵入という話になっていく。
10月 17 2022
もっとダイナミックな思考を持とう!!
私たちは経験的なものを通して遠い過去をもイメージする。たとえば、人間がいなかった頃の世界を、私たちは人間の経験的意識を通して想像してしまう。しかし、それはあくまでも意識経験の結果を通した描像であって、人間以前の風景にはほど遠い。その意味で、ビッグバン宇宙や進化論などいった科学的世界観が作り出した過去の物語は虚構のイマージュで覆い尽くされている。
このことはベルクソンが言う「実在性と可能性」と「現実性と潜在性」の関係によく似ている。可能性の実在化の中で生命が進化してきたと考えることと、潜在性の現実化の中で生命が進化してきたと考えることはまったく違うものだ。前者には差異はなく、後者には差異がある。単なる生物化学の地平では、この差異は見えない。
この差異は時間的には持続の中で、空間的には奥行きの中で活動している。持続と直線的時間という時間の二つのタイプと、奥行きと幅という空間の二つのタイプ、これらが互いにいかに根源的な相補性であるか、私たちはもっと知る必要がある。量子力学に登場する複素平面が表現している実軸と虚軸とは、後者の相補性の数学的表現である。
この幅と奥行きとの差異は、同時に、空間に露出した自己と他者の存在論的差異のことでもあるだろう。自己が奥行きを持つ者としてこうして出現しているということは、自己とは実在に対する差異を持つ存在だということだ。そして、自己はこの差異の中に潜む潜在性を現実化していく力を持っている。
自己が実在に対する差異だということは、自己は時空からハミ出ている存在だということだ。まずはこのことに気づくことが、霊的個体化の世界への入口となる。
知覚・記憶・クオリア等、持続ベースの意識と、言語・記録・数量計算等、延長ベースの意識の場を明確に区別して考えよう。前者はヌーソロジーでいう人間の外面、後者は人間の内面の産物である。
自己存在のそのハミ出しの領域が物理学では複素空間として表現されているのだと考えるといい。〈わたし〉に最も身近なはずの自分の精神の姿が時空上では素粒子として記述されているということ。そして、多くの人がその難解な表現形式のために自己自身を敬遠してしまっているということ。それが今現在、人類に起きていることだ。これは、ある意味、悲劇だ。
物理学では複素空間から時空が生まれていると考えることができる。これは、ベルクソン風に言うなら、潜在的なものから現実化が生じていることを意味している。つまり、時空・物質という私たちが実在的と考えているものも、本当は精神の一つの表現として現実化しているに過ぎない。実在とは現実化されたもののごく一部に過ぎないのだ。
少し考えればすぐに分かる。実在には瞬間しかない-このことを今一度、自らの感覚に叩き込まないといけない。実在をあたかも一つの絵巻物のようにして見せているのは、潜在性として生きている私たちの精神の方なのである。
デカルトの「我思うゆえに、我あり」の〈ある我〉と〈思う我〉の違いも、この実在としての”我”と、潜在的な領域から実在を生み出した”我”との違いに由来している。いわゆる非本来的自己と本来的自己の違いだ。つまり、自己は差異を挟んで上位と下位に分裂したところに自己のシステムを作っているということ。これも、まもなく多くの人に分かってくるだろう。
脳をいくら調べても、自己の由来は決して見えてはこない。自己の生成は宇宙全体におけるトポロジー運動の産出物のようなものであり、局所的な電気信号の産物などではないということだ。宇宙全体を一気に回転させているこのような機構が素粒子だと考えないとダメだ。極大は極小に射影されているのである。
とにかく、ここで言いたかったことは、私たちは自分が考えている以上に、はるかに巨大な存在だということ。近代理性の思考に変に影響を受けることなく、自由にのびのびと思考の羽を広げよう。
私たちは飛べるのだから。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: デカルト, ベルクソン, 素粒子, 複素平面, 量子力学