12月 8 2021
時空の脱自態の地平へ―時空のスイングバイが始まっている
久々にKAZEさんの記事より。
ここに書かれてあることのすべてに同意します。
このKAZEさんの記事を取り上げたのには理由があって、たまたま下のようなツイートをTwitterに連投していたから。
以下、Twitterより―
本来的時間への時熟が起こると、世界はうちへと向けて自らのうちに開く。ハイデガーはこうした”開き”のことを「脱自態の地平」と呼ぶが、具体的にそれがどのような世界なのかについては語っていない。ヌーソロジーからすれば、それは人間が自然の始原(素粒子)に位置する霊的自然のことに他ならない。
OCOT情報では、この「世界はうちへと向けて自らのうちに開く」ことを「対化の方向性が変わる」と表現する。例の「時間に負の方向性が生まれる」というお馴染みの表現も、このハイデガーのいう「脱自態の地平」に対応していると考えていいように思う。
ヌーソロジーの空間構造のみならず、哲学や物理学の知識がないと、ここは何をどうイメージしていいのかサッパリなところかもしれない。大雑把に言えば、”持続を挟んで時間の方向性がひっくり返される”のだとイメージすればいい。
このひっくり返りによって、自然界は持続(永遠)から現出してきているものに見え出す。そして、その時の持続とは自己自身のことでもある。一方、今の私たちは現出を知覚してそれを持続の中に記憶している。つまり、時間の負の方向では、継起する瞬間性と持続の関係が逆になっているのだ。
ベルクソンの持続の存在論とハイデガーの時熟の存在論のを統合させて思考したのドゥルーズだと思うが、ドゥルーズの場合、そこに登場する新たな主体のビジョンがあまりに超絶すぎるという問題がある(笑)。この主体イメージはもっと思考可能なものとして描かれる必要がある。
生成空間という新しい地平の上に本来的自己と非本来的自己のハイブリッドとして立つ「ヒト」において、時間はどのように見え、また物質はどう見えるのか。そのイマージュを確立させていくことが、OCOT情報のいう次元の顕在化という概念とつながっている。
位置の等換の年とされる今年(笑)、朧げにも浮上しているビジョンは時間と持続の循環が確かに意識内に存在しているという感覚だ。ベルクソンの場合はこの循環を例の逆円錐モデルで描いているが、あれだと、反復のイメージは持てても循環のイメージはひ弱い。つまり、反復するその理由が見えない。
通常の存在感覚で言うなら、瞬間性の継起を迎え入れるところに客観認識が生じ、それが持続へと戻されるときに記憶、つまり主観性が生じ、その主観を支える持続が持続の向こう側へと回り込むことによって、瞬間性の継起を非本来的自己の前に立ち上げるといった循環イメージだ。
このような時間イメージを強固なものとするためには、主体は自ら自身の位置を持続におかなければならない。かつ、その持続からいかにして瞬間性を立ち上げることが可能になるのか、そのイマージュを明確なものとしないといけない。
そのシステムを支えているイデアが例の3+1→2×2→3+1という、時空のスイングバイを行う、複素二成分スピノルのテンソル積に表現されていると考えるのがヌーソロジーなのである。このスイングバイはハイデガーの言葉を借りるなら、時空自体の脱自態を表現する式と言えるのではないかと思う。
この時空のスイングバイの達成によって、時空と原子核は見分けがつかないものとなる。つまり、ミクロがマクロを包むという逆モナド化の世界がそこに開き、時空自体が襞のように重なりを何重にも持ち、物質の内部のあの多様性の世界が、そのまま物質の外部とイコールになるような多様性の時空が花開いてくるわけだ。ブラボー!!
それによって、ここではドゥルーズの言うように、差異は肯定的なものとして現れ、新たな差異の生産がそのまま、二元性の統合という運動に置き換わりながら、時空をよりふくよかなものへとしていく。ヌーソロジーにおいてはその運動は等化(精神)のセリー(連続的系列)として現れ、これが”ヌース(能動的知性の流動性)”の意味するところとなる。
結論から言うなら、このような世界の裏返しは可能である。と言うか、その裏返しが反-実現化しているからこそ、この今の私たちの世界の存在があると考えないといけない。今、あちこちで現れている表の世界の行き詰まりは、そろそろ裏へと回りんしゃいという、存在からのサインだと思うのだが。。
9月 15 2022
老いて幼児へと回帰すること。そして、あわよくば胎児へと・・・
物理学にいうカイラル対称性の破れとは右巻き粒子と左巻き粒子の区別がつかなくなることを言うが、素粒子を無意識構造と見た場合、おそらくこのことが空間の一般化を意味している。人間の空間認識を一様にしている原因となっている無意識の動きだ。
小学校1年生で先生から右と左を教わったとき、どうしても理解できなかったのが自分と先生の右と左の関係だった。
向かい合った状態では当然、先生の右手側は僕の左手側になる。だから、先生が「こちらが右手です」と手を上げたとき、僕は自分の左手が右手にしか思えなかった。
「はい、右手を上げて」と先生に言われ、左手を上げる僕。
「違います半田くん。何度言えば分かるんですか。」と段々とイラついてくる先生。
この応酬が何度も繰り返され、結局僕は右という概念を「先生とは反対」というかたちで受け入れた。
右巻きと左巻きが区別がつかなくなった空間において、右巻きと左巻きの区別は一体どこに行ってしまったのだろうか。物理学的に言えば、それがおそらく消えた反粒子の世界につながっている。物理的に世界を見ている限り、この世界に他者はいないということだ。
光の孤児としての私。
カタチのない精神。
言葉に生きる人間。
僕にとっては、これらすべてが同意語に聞こえる。
やはり僕には今の常識的な空間の見方が根底的に間違いを犯しているようにしか思えない。実のところ、空間は自分自身であって、空間の中にいるとされている私の方はおそらく偽物だ。とすれば、そこから派生してくるすべての知識もまた偽物だということにならないか。
ベルクソンの言葉で言えば、空間にいる私は「表層の自我」であり、空間自身としての私は「深層の自我」ということになるだろう。多くの人が深層の自我に目覚め始めた時代。表層の自我が作り出した表層の知識は、深層の自我が送り出す新しい知識に駆逐されていくことになると思う。
(下写真/「鏡の中のジョージ・ダイアーの肖像」フランシス・ベーコン)
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: ベルクソン, 素粒子