8月 29 2014
メビウスの帯がその捻れを失うという出来事について
時間は客観の条件であり、空間は主観の条件である。時間と空間が延長として繰り広げられたものである限り、客観と主観もまたこの繰り広げの状態として出現してきている二つの次元にすぎない。繰り広げの前にあったもの、それを知ることが重要なのだ。
この繰り広げ以前に存在するより根源的な領域。この領域が象徴界(言葉の世界)と想像界(イメージの世界)の間に亀裂を入れている。いわゆるラカンのいう現実界というやつだ。
現実界とはドゥルーズの表現を借りるならば、「巻き込み」の領域である。これが数学的な形式としては複素2次元空間に対応している。uとdクォークが発生している基礎的な場である。自他それぞれの特異性が互いの共可能性を探り合いながら、交錯をくり返している場と言っていいだろう。
この場において自己と他者の互いの特異性は物理学的にはカイラリティーの保存(カイラル対称性)として記述されている。つまり、右手系か左手系かの区別だ。根源的空間においては自他の空間は互いに反転した関係で構成されているということだ。
しかし、互いが持ったこの差異はSU(2)の中の一つの回転(σ2がからむ回転)によって失われる。それによって自他それぞれが持った奥行きと幅の差異が等化され、両者における奥行きの共有と幅の共有が起こるのだ。そこに出現してくるのが時間と空間である。
向かい合う自己と他者を考えよう。本来の奥行きはこのとき見つめ合う視線の中にある。しかし、わたしたちは同時に左右方向からの視線も持っている。この視線の中に自他共有の奥行きが存在している。そのとき、見つめ合う自他相互の二つの奥行きは共有された幅へと変換されていることが容易に分かる。
ここに時間と空間が発生しているということだ。
モノの側面の像について考えてみるといい。実際にはそれは決して見えるものではないのに、あたかもそれが見えるかのように錯覚させている視線がわたしたちの内部にある。それが左右からの視線だ。それが物質や外界という存在を支えている本質力であり、時間の発生源になっている。
たとえば、何かに没頭しているとき、僕らが時間の経過を感じにくくなるのは、この左右からの視線の働きが弱まるからと考えればいい。
9月 12 2014
男と女の痕跡、あるいは汝と我の痕跡をめぐって
奥行きというのはラカンの理論でいうなら「失われた対象」のようなものだ。奥行きに幅が入り込んでいる限り、僕たちはモノ(自体)には直接触れることができず、言葉(シニフィアン)によってそれをつかもうともがく以外にない。そうやって、果てのないシニフィアン連鎖が繰り返される。
シニフィアン連鎖——「シニフィアンは、他のシニフィアンに対して主体を代理表象する」——ラカンの有名なテーゼ。シニフィアン(言葉)は必ずしもシニフェ(意味)を表象してるわけじゃない。それは言葉を少しでも話してみれば分かる。言葉を話せばそこには必ず「わたし」という意識が立ち上がっているのが分かる。
言葉は「わたし」を代理表象しているのだ。だから、言葉ではわたしをつかむことなどできない。それでも、言葉はもがき続ける。
そうした言葉がつかもうとしているものこそが「失われた対象」、つまり「奥行き」ではないかと感じている。
その感覚からすると、奥行きにはさまった幅はシニフィアン(言葉)と頑なに結合しているように見える。おそらく、言葉がにじませている意味(シニフェ)とは、真の奥行きに送り返されゆく言葉が垣間みる主体の痕跡、残像のようなものだろう。
こうして、「言葉」と「意味」という二つの痕跡を巡って、グルグルと周回を続けているのが人間の意識というものだと思う。OCOT情報はこのメカニズムをクールにひとことで「調整」と呼ぶ。実にふざけたヤツだ(笑)
人間の過剰なおしゃべりが終焉を迎える時期が近づいている——ヤツはそれを伝えにきたのだと思う。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: ラカン, 奥行き