11月 17 2017
「明かしえぬ共同体」の場所を求めて
今日はヌース用語の説明を——。
【球精神(きゅうせいしん)】
ヒトの精神を形作るもの。凝縮化によって下次元に人間の精神の位置を形作る。無核質を作るための力。素粒子には陽子として反映されるもの。「精神球」とは真反対の位置にある。
OCOT情報によれば、高次元空間はすべて空間の重なりとして構成されている。平坦な空間の中に平坦なものが複雑に組み合わさって物質が作られているのではなく、平坦な空間の中に高次元の垂直的な連なりが活動していて、その交通性が平坦さの中で物質を複雑なものとして見せている。
つまり、すべての高次世界は人間の目の前に重なり合ってあるということ。
人間に物質として把握されている次元は「点球」と呼ばれるが、これは人間の知覚における一つの物体概念のことを指す。しかし、同時にそこにはより高次の「球精神」と「精神球」も重なり合っている。次元観察子ψの序数で言うと、点球=1〜2、球精神=7〜8、精神球=13〜14。(精神球は点球を生み出している力)。
球体の観念の上にこれらの領域の重なりがすべて見えてくるときの境位のことを、OCOT情報では「一つの次元」とも呼んでいる。そして、この「一つの次元」の表裏において、自他の精神が交替化を起こす仕組みになっている。
この高次の交通路を認識に上げるために絶対不可欠なものが、いつも話しているSU(2)(複素二次元空間における回転)だと考えるといい。SU(2)はこの文脈でいうと「球精神=ψ7〜8」の位置に当たる。ψ1〜2とψ13〜14のちょうど中間点だ。
ψ1〜2を、結果として与えられたわたしたちの時空と見なすなら、ψ7〜8は時間と空間を作り出すもの、13〜14は時空を作り出しているものと言える。つまり、ここにはSU(2)の二重構造が隠されている(物理学に見られるディラック場などはその反映)。
SU(2)などというと、多くの人は敬遠して近づきたがらないけど、OCOT情報の文脈からすれば、この高次の空間描像を確立しなければ、物質と精神の繋がりは分からないし、「明かしえぬ共同体」もまた多くの思想家たちが言うように明かしえないままに終わる。
だから、ヌーソロジーは執拗にSU(2)描像問題に食い下がる(笑)。ということで、12月の福岡ヌースアトリウムでは、午前中に、このSU(2)描像についての2時間のミニレクチャーを行う予定です。
また、翌日も専門研究者のΦさんに、SU(2)関連の話をしてもらう予定です。こちらの詳細は追ってまたご案内します。
実際に存在しているのに、それが何なのか全く分からない。それが素粒子というものです。そして、物質世界のすべてはその素粒子から作られている。ということは、人間はまだ物質世界が何者であるのか全く分かっていない。そういうイメージで世界を見直すことが重要です。
12月 1 2017
新しい永遠——the green roses
素粒子を象る円環は常に直線的時間を巻き込んでいる。素粒子の内部に巻き込まれた時間はその内部で前後関係を失い、渾然一体となって精神の中に溶け込んでいる。私たちの記憶があられもない乱交状態にあるのもそのためだ。
一方、私たちはその記憶を直線的時間上にマッピングすることを好み、むしろ、この序列を時間だと思い込んでいる。記憶はそこで記録や歴史へと変質させられる。記憶はプライベートなものだが、記録や歴史はパブリックなものだ。つまり、時間にはソロの時間とデュエットの時間があるということを再確認しておかなくてはならない。パラノ時間とスキゾ時間とでも呼ぼうか——。
ベルクソンの持続の時間論はとても魅惑的なものだった。しかし、このソロとデュエット、持続と直線的、二つの時間の質の関係が今ひとつクリアじゃなかった。二つの時間の類型の間にある差異と反復。ドゥルーズはここに深く切り込み、独自の時間論を練り上げた。
そこから、ドゥルーズならではの永遠回帰の論理が仕立てあげられる。その内容を一言で言うなら、時間はやがてその直線的な展開を停止する、というものだ。
私たちは、今、パブリックな時間にプライベートな時間を従属させている。時間は流れる。それを私が記憶する。といった具合に。
永遠回帰はこの関係を逆転させる。つまり、繰り広げられた時間をただ円環の中に巻き込むのではなく、今度は私自身が円環となって、時間を外へと繰り広げ始めるのだ。
こうした時間の変換運動は、実は素粒子たちが行っていることでもある。私たちが素粒子自身になるとき、時間は、その直線を展開するの止め、自己自身に巻きつき丸まる。そこに現れるのが円形の精神、すなわち「霊魂」だと考えるといい。
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世界の裏側には私たちにはまだ全く未知の広大な大地がある。イデア界、シャンバラ、常寂光土、楽園…または潜在的なもの。呼び方は人それぞれだが、その場所を伝統的な宗教や哲学とは全く違った思考方法で開かなくてはいけないと思った。それが開かないのはただただ概念の欠如によるもの。そう感じた。
人は最初、見ることと話すことで交流した。しかし、それがいつの間にか、読むことと書くことに変わった。人は盲目になった。宗教も哲学も読むことと書くことで広がっていった。だから、広大な大地は見えなくなり、それについて書かれた書物と、それを読んだ情報通たちだけが増えていった。
しかし、これは必要なプロセスだった。まもなく人は盲目ではなくなるだろう。読むことと書くことが、新しく、見るべきものと話すべきものを用意してくるだろうから。それは、かつてあったものでなく、新しく作り出されるべきもの。帰還するのではなく、前へと進むこと。前へと。
永遠は新しい永遠の訪れを待っている。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: ドゥルーズ, ベルクソン, 素粒子