10月 15 2010
外面知覚がミクロ世界に入り込んで何やら悪さを働いているというお話
ヌーソロジーロッジの「科学とヌーソロジー」のトピの中で夢野さんが紹介していたSさんの物理学教室、中身が斬新でかつ濃厚そう。参加したい。さすがブルックヘブン出身やね。この冒頭にある夢野さんへのSさんのコメントは面白い。
ヌーソロジーロッジの「科学とヌーソロジー」のトピ——こちらへ
空間の中にモノがあるのではなく、モノが回転して空間(時空)を作っているのがイメージできると思います。
まずは単純に考えて、モノの半径をR(+)^1としてそこに作用する回転群をSO(3)とすると、
SO(3)×R(+)^1→時空
という構成ができる。
さて、モノの回転と言ったとき、すでにモノという認識が前提とされている。ではモノの認識そのものはどうやって生み出されているのか。それについて考えなければならない。視覚にとってモノは平べったい像にすぎないので、それだけではモノの認識に至ることはない。モノが主観にとってモノであるためには、モノが周囲に放っている様々な見えをいろいろな角度から見て、そのときどきの視像を主体が想像できなくてはならない。つまり、モノという認識自体の中にすでに見えない回転運動が前提として含まれているということだ。しかし、ここでの回転は事物としてのモノの回転(SO(3))では決してない。また、それは主体がモノの回りを巡って作り出しているような回転でもない。モノは一瞬のうちに一挙にモノとして主体に把握されているのだから、そこにはもはや時間はなく、主体にとってはモノの見え(表相)をあらゆる位相から同時に見るような一括した認識である。
ここでキュビズムが頭をよぎる。周知の通り、ピカソやブラックの作品で有名な分析的キュビズムはこうした位置に人間の認識を解放させようとして生まれた芸術運動だった。しかし、所詮、無限数の視点から見たモノを絵画として表現するのは不可能だ。分析的キュビストたちの失敗は、この把持の状態(一挙に見ること)を絵画作品として表象化しようとしたところにあった。
視覚的表象はあくまでもヌーソロジーでいう「表相」次元に含まれるものであり、モノの認識において把持されているものはもはや表象ではなく、モノが違う角度から見ても別の視像を持っているという「主観における確信」ではないのだろうか。そして、そのような確信を裏で保証しているのは別の観測者、つまり他者に他ならない。だとすれば、モノの認識は自己だけで成立するものではなく、自己視線と他者視線のあいだに成り立っている間-主観的な対称性を持つ構造体であると言える。モノにおけるこの対称性の構造の把持を幾何学的に表現しているものがおそらくSU(2)ではないかと思われる。否、SU(2)という群で表現してしまうと回転のニュアンスが含まれてしまうので単にS^3(3次元球面)とした方がよいかもしれない(SU(2)=S^3)。この考え方においては観測の視線をスピノールとして解釈している(根拠は省略)。
さて、モノの認識の背後にこのような高次の回転が暗躍していると仮定すると、上でSさんが書かれている「モノが回転して時空を作っている」という内容は、モノ=SU(2)が回転して時空を認識しているという言い方に変えても全く構わないことが分かってくる。これは、元のモノの観念自体の成立がSU(2)で成り立っているとすれば、時空認識の背後には必ずSU(2)が暗躍していなければならないという意味でもある。こうして主観における外界「認識」のカタチは、
SU(2)×時空[SO(3)×R(+)^1]
というかたちで表現できることになる。
上の式の内訳を説明しておくと、
時空に対するノエシスの元となる力がSU(2)で、
時空というノエマが[SO(3)×R(+)^1]、
観察の志向性自体が×の記号で表されていると考えるといい。
このことは何を意味するのか――
ヌーソロジーにおいては点とモノは幾何学的に同相だと考え、これら両方を「点球」という概念で一つにとりまとめる。つまり、点とモノは「観念においては等しいもの」だと考えるということだ。これは物理学が物体を質点に還元してしまうことと似ているにも感じるが、その意図は全く違う。時空の広がりの認識はノエシスとしての点観念の拡張(膨張)によって構成される。点の観念は観念であるゆえに大きさはない。このときの点観念自体のカタチがSU(2)である。
運動によって3次元空間の広がりを構成する場合についても同様のことが言える。空間上を点が動く場合を考えてみよう。それによって空間が計量的に認識されていく。もしくは、計量的に認識されることによって空間という概念がそこに設定されているとも言っていい。いずれにしろ、点観念が存在しなければ、1次元も2次元も3次元もヘッタクレもない。しかし、その空間認識における力の根源的点ともいうべきものは内部にSU(2)=S^3の構造を孕んでいる。となるとそこに何が起こるだろう。そこでは直線が円環状に丸められ、結果的に3次元空間をまさぐっている点の直線運動自体が自己言及的に点自身の内部構造であるSU(2)の中に反映され、その運動を回転の位相の変化としてプラマイゼロになるように調整してくることだろう。この全体の帳尻合わせが物理学がゲージ対称性と呼ぶもののの本意となっているのではないだろうか。
このことから物理学が言う時空上の一点一点に貼り付いた内部空間(アイソスピン空間)とは、主観が時空を認識するための点の観念のことではないかという仮説をヌーソロジーでは立てている。そして、その点の発生の起源は自己と他者の視線の総体にある。何度も言うようだが、ヌーソロジーにおいては素粒子は物質ではない。それはわれわれの精神である。
外界認識はヌーソロジーでいうところの「人間の思形」そのもの。
ψ2→ψ4→ψ6→ψ8へのψ7の交差(上図参照)。
11月 22 2010
ドゥルーズのバトン
最近、ドゥルーズの本ばかり読んでいる。ドゥルーズに初めて触れたのは今から10年ちょっと前ぐらいだったか。丁度、ヌースアカデメイアのサイトを立ち上げた頃だった。友人でもある詩人の河村さんに、半田さんはドゥルーズを読むといいんじゃない、と言われ、最初に何気に手に取ったのが『アンチ・オイディプス』(ガタリとの共著)という本だった。今思い出しても強烈な体験だった。読み始めると同時に、それこそ頭蓋骨にハンマーが振り下ろされるような一撃を喰らった。なぜなら、それまで、OCOT情報と格闘しながら自らの拙い思考で整備していた無意識機械の構成部品の数々が、この書物を手にしたことによって、まるでマジンガーZの合体シーンのようにカシーン、カシーンと金属音を響かせながら一挙に脳内に組み上がってきたからだ。そうやって姿を表したのが現在ヌーソロジーの骨格として使用している「ケイブコンパス」というフィギレーションである。
『アンチ・オイディプス』が打ち出すビート感とドライブ感に一発で魅せられた僕は、その後、『千のプラトー』『差異と反復』『哲学とは何か』など、K書房新社から出ている高価な単行本を買い求めては、ドゥルーズが見ている内在野の風景が果たして、OCOT情報から僕が読み取ったもの(OCOT情報ではドゥルーズが概念化している内在面のことを「付帯質の内面」といったような言い方をする)と同じものなのかどうか、それを確かめたい一心で読み漁った。しかし、悲しいかな、ドゥルーズの本は、哲学の基礎教育を受けていない僕のような素人にはどれも皆、難解なものばかりだった。書物全体に散りばめられている語彙の出所は、哲学はもとより、神話、古代思想、神学、文学、絵画、音楽、映画etc…と広大な射程を持っていて、聞いたことのないような単語でベージが埋め尽くされていることも多々ある。西洋の人文科学史の全体を覆い尽くす知の全体からこぼれ出してくるその語彙群の夥しさは、まるでカマキリの孵化を見ているかのような強度で、時折、目眩を誘発させることもある。
まぁ、しかし、こうした語彙の難解さは知識の補強で済むことではある。実はドゥルーズの難解さの本質はそんなことではない。ドゥルーズは明晰さなどは微塵も追求してはいない。つまり、読者に自分の哲学を理解してもらおうなどとはこれっぽっちも思っていないということだ。このへんはOCOT情報に酷似していて面白い(笑)。つまりドゥルーズは哲学の先生でもなければ、哲学の評論家でもない。ただ生粋の哲学者だということだ。「哲学とは概念を創造することだ」というドゥルーズ自身の言葉にもある通り、ドゥルーズは概念のクリエーターであり未知の思考そのものを生きている人である。ここでドゥルーズがいう「創造」とは、〈表象=再現前化〉が支配する自我の同一性から解放された思考の所作を意味している。一般に思考というものが〈表象=再現前化〉のループの中で展開されるものである限り(実際、思考というものは事物の自己同一性が担保されていなければ成り立たない)、ドゥルーズのいう創造とは思考不可能なものを思考することの意となる。しかも、ドゥルーズは、自身の思考の中で次々と切り開かれてくる概念の蠢きをそのまま自分自身の「書く」という行為の中へと直裁的に反映させる表現者でもあった。つまり、彼が作り出す諸概念は「エクリチュール機械」の中に即座にインプットされ、その文法、構文、文体を通してすぐさま「表現されたもの」という事件として出現してくる――意味につかまらないこと、主語の同一性に捕縛され直線的になりがちな論説に絶えずクリナメン(ずれ)の一撃を与えること、同一の主題に常に変奏のリトルネロを与えること——そうやってドゥルーズの文体は常に神経症的な記述と分裂症的な記述の間を意図的に反復させながら、ロジカルに文脈を追おうとする読み手の理性の関節を脱臼させようとさせるのだ。
こんな化け物のような書き言葉の束を相手に、たった一つの動機で、ただどうしてもOCOT情報を読み解きたいというだけの動機で、僕なりの「差異と反復」が、OCOT情報とドゥルーズ哲学の間を巡って今もまだ執拗に続いているというわけだ。
哲学書というものは最低でも10年ぐらいかけて読むべきものなのだろう。ドゥルーズを知ってからというもの、自分の哲学的無知さ加減をいやというほど知らされ、その間にまがいなりにも、スピノザやカント,フッサール、ベルクソンやフロイトなどをつまみ読みした。その甲斐あってか、最近になってようやく、西洋の哲学が一体何を問題としてきたのか、その全体像というものが茫洋と見え始め、それがフィードバックされて、以前よりもさらに高い解像度でドゥルーズの思考の軌跡が追えるようになったように思える。あと、ヌーソロジーの側面から、ケイブコンパスがその内部に孕んでいる空間構造をかなり緻密に思い描けるようになったことも手伝っているのかもしれない。とにかく、ドゥルーズの言ってることの輪郭がひとりよがりではあれ、極めてクリアにつかめるようになってきた。それと並行して、OCOT情報の蓄積があるおかげだろうか、一方でドゥルーズには見えていない部分も見えるようになってきた。ドゥルーズが自分の思考を表現しようとして、その比喩が不十分である部分、また、読み手にどうしても誤読を誘ってしまっているような部分、そして、ドゥルーズ哲学に根本的に欠如している部分等。。。(特にハイデガーの存在論的差異にニーチェの永遠回帰を接合させた部分の論証が具体的に展開されている箇所が全く見当たらないのが個人的には物足りなく思っている)
ソーカル事件でドゥルーズを初めとするポストモダンの思想家たちが厳しく批判されたせいもあるのだろう。今の思想の世界では、もうドゥルーズは終わったなどと言う人もいる。ドゥルーズを21世紀に甦らせるためには、ドゥルーズを解説するのではなく、ドゥルーズに欠如した部分を補い、かつ、その完全化したドゥルーズを実証を持って証明することが必要だ。そのためにはまずは潜在性としてうごめいてきた哲学的な諸概念を実在性としての物理学的な概念へと接続させることが絶対条件である。僕が執拗に、哲学者たちが語っているアプリオリ(超越論的構成)とは素粒子構造のことなのだと言っているのもそのあがきのようなものである。そして、それはドゥルーズのライプニッツ論やイデア論からすれば全く持って正統な主張のように思える。そして、その〈差異化=微分化〉の思考自らがバロック的な「襞」となって、実在の中に〈異化~分化〉としての新しい物質的表現を持たなくてはならない(それが反物質となるか超対称性物質となるかはまだ分からない。新しい原子ともいうべきか。)。つまりは、ドゥルーズの生成論を現実としての生成へと転換しなくてはならないということだ。それによって、思考は〈思考する私ー自我〉という思考システムの同一性から離脱し、生成の内在面を駆け抜ける生ける強度となって新しい存在への道を切り開くのである。晴れてこの切り開きが起こった暁には、哲学は相転移を起こし、哲学自身を一つの宇宙的な創造行為へと変態させることだろう。そこではもう、思考と実在を区別する術はない。すべてはありてあるもの、つまり存在の一義性の中に融一し、世界から人間という体制は消え去っていく。元素界というトランスフォーマーの空間が顕現するのだ。
この一点のみにおいてヌーソロジーはドゥルーズのバトンをしっかりと受け継いでいる。この一点のみにおいて。
By kohsen • 01_ヌーソロジー, 06_書籍・雑誌, ドゥルーズ関連 • 0 • Tags: アンチ・オイディプス, カント, ケイブコンパス, スピノザ, ドゥルーズ, ニーチェ, ハイデガー, フロイト, ベルクソン, ライプニッツ, 付帯質, 差異と反復, 河村悟, 素粒子