意識物理学研究所に招かれての講演

8月22日は福山で、意識物理学研究所の佐藤さんに招かれて、現代物理学とヌーソロジーの関係について話をする予定です。
   
佐藤さんは京大の大学院から、アメリカのブルックヘヴン研究所(日本の高エネ研のようなところ)に移り、約6年間ほど素粒子物理の研究をされていた、言ってみれば、その道のエリート研究者だった方です。以前、一緒に本を書かせていただいた砂子さんも京大物理の出身ですから、ヌーソロジーはやはり京大閥と相性がいいのかもしれません(笑)。
 
量子力学と意識のただならぬ関係——この問題は量子力学の草創期に、アインシュタインやボーア、シュレディンガー、ハイゼンベルク、ディラックといった天才たちが直面した深刻な問題でした。量子力学の世界ではあの有名な観測問題というものがあって、観測者と観測対象である量子を明確に分離させて考えることができなくなるとされています。つまり、量子は観測によってしか、明確にその姿を表すことはなく、観測されていないときは波動関数という形をとった確率的存在でしかなくなってしまうということです。
 
当時の物理学界の巨星、アインシュタインはこのような曖昧な量子的現実にどうしても納得がいきませんでした。人間の存在とは関係なく、客観的世界が厳然と存在して然るべきだと考えていたのです。しかし、ボーアの方は量子的現実がそのような挙動を見せるのであれば、人間はその現実を受け入れるしかない、と考えていました。この二人の対立は次のようなやりとりにはっきりと表れています。

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アインシュタインさん、現実というものは観測されて初めて意味を持つものです。観測されていない時の現実を問うことは、もはや意味はないでしょう。
 
ボーア君、観測する、観測しないの如何に関わらず、現実を確定的に説明できなければ、完全な理論とは言えないのではないか。私は確率だけの予測、それを物理学とは呼びたくはないのだがね。自然はもっと単純な美しさを持ってしかるべきだよ。
  
アインシュタインさん、その理論が正しくないなら、単純な美しさなど何の意味も持たないのではないでしょうか。我々は古典物理学に慣れ過ぎていたんですよ。ミクロの世界は我々の常識を超えたつながりを持っているのです。

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このやりとりからも分かるように、アインシュタインは客観的宇宙というものが人間とは無関係に存在し、そこに純然たる物理法則が存在していると信じていたわけですね。しかし、量子力学の出現はそのような人間の理性の思惑を揶揄するかのように新たな難問を投げかけたのです。
 
当時の物理学者たちは、量子力学が呈してきたこのような哲学的命題に対して、夜を徹して何度も議論をしたと言われています。しかし、やがて戦争が始まり、この問題はそのまま等閑にされて現代に至っています。
 
量子レベルで人間の意識は物質世界と繋がっています。しかし、物理学者たちのほとんどがもはや誰もその繋がりについて考えなくなってしまっているわけですね。そして、物理学者の思考は以前として古典物理学のスタイルのまま、宇宙を客観の産物として見なし続けている。。
 
22日は、こうした話をスタートラインとして、ヌーソロジーと量子世界の関係について具体的な話をしてみようと思っています。集まった人たちの顔ぶれを見て、もし許されそうだったら、カタカムナの話なんかも少しオカズに挟むかもしれません(笑)。お時間がある方は是非、お出で下さい。佐藤さんとの対談も用意されているようです。僕も楽しみです。

講演会「物質の究極と人間の意識」~素粒子の謎が解かれるとき、文明の大転換が始まる~